毎日なんやかやと作業があるため、それをひたすら進める。
17日にずっと友人宅に預けている飼猫どもに会いにゆく。想定内であったけれども、スピカに威嚇され、おろちは素直に甘えて来ない。予定より長くなってしまったため、不機嫌になっているのであろうか。
友人のタロッカ(タロットのようなもの)に猫の気持ちを聞いてみたら、どうやら私のことを忘れかけていたらしい。これは想定外であった。野良出身のせいか、私に執着心があまりない猫どもの自立心を私はよしよしと思っていたのだけれども、忘れるというのはあんまりである。
どちらにせよ来月まで会えぬので、テレパス的にラブを伝えることにする。スピカはキャッチ出来るような気配があるのだけれども、おろちに伝言してくれるような気遣いなどは皆無な猫であるため、おろちの心情が心配である。
猫どもの不在で、ひとつ発見があった。生活が荒れた。毎朝全ての窓を開けて冷たい空気を家中に通し、布団やクッションを陽の光に当てて、植物の手入れを丁寧にし、木のお盆で食事を運び、外出の予定が無くとも身なりを整え、洗濯物にラベンダーオイルをたらしていたのは、どうやら猫が居たからのようである。習慣になっていたこれらのことを、この10日間全くしなかった。これではイカンと、今日からやり始めたのではあるけれども。猫が私の生活に自律を与えていたのだ。猫が帰って来た暁には、このことを踏まえてより猫どもに感謝して暮らそうと心する。
今日は表参道で友人と夕食を共にし、明日はドイツに発つ。明後日と感違いしていたことに、密かに冷や汗を流しつつ日記を終える。
手違いで前回の日記を消してしまった。何を書いたか定かではないけれども、思い出せる箇所についてはろくでもないので、消えてしまっても残念ではない。
昨日まで日暮里にてグループ展に参加。とてもいいことが沢山あった展示であった。私は来週ドイツに行くのだけれども、向こうでの滞在費に困窮していた。しかし今回は作品が丁度必要経費分売れた。何とも有難いことである。こうして手にしたお金は、ベストな使い方をしようと思う。だから私はやはりこういう収入の仕方がいいと思う。
パフォーマンスでストリッパーの女性。私のセクシュアリティーに、彼女の気高く身も心も捧げている事が大きな揺さぶりをかけてきた。私にとってとても重要な気がしてならない。前夜に私はセクシュアリティーのカードをひいている。具体的にイメージが湧いてきたが、思考になってしまった段階で止める。こういう確定出来ないことに思考が入ると、私の場合思い込みになる危険があるからである。
地下鉄の通路で、あ!と気づく。私は自分の方向性の中途半端さにとても苛立ちとコンプレックスを持っていたのだけれども、そこにもしかすると私のアイデンティティの源があるのではと、突然思った。そこに、突破口がある気がする。
8月生まれはあらゆる物事を複雑化しやすいらしい。別の日記でも書いたけれども、シンプルさが必要。
久しぶりの日記。和歌山県真国貴志駅。たま駅長仕様の電車の中で日記を書く。三毛猫柄の座席。猫の形の照明。そして出発時にニャーンと鳴る。そこまでしておきながら、なぜか本棚は「ぽち文庫」。たま文庫でいいではないか。なぜここでぽちなのか。ジョークにも見えない。そんなもやもや感満載の私を乗せて、猫耳つけた電車は和歌山に向かう。
くるりの岸田さんの日記。如何にして具体的な意識を持つかが大切と。私には具体性があまりない。抽象的で曖昧だ。だから中途半端化しやすい。これは今年の下半期の課題である。
Facebookを使用しているのだけれども、つくづく奇妙なツールだと思う。一度しか会った事がない人の日常が、毎日報告される。Facebookをし始めてから、この場限りでよしとする人に好感を持つ事が増えたかもしれない。
初めて風水を見てもらったり、高校生らと話したり、イノシシの焼肉を食べたり、3億の借金話を聞いたりと非日常的な和歌山真国の旅であった。もうすぐ電車が着くので日記を終わる。