またしても日記が開いてしまった。
その間に九州で震度7の地震があり、エクアドルでも地震があった。
私自身が東北地震の時ととても似たような状況であった。異なるのは、立場の逆転だ。前回の時は被災者ではなかったけれども、心配される側であった。今回は私が地元を心配する側だった。親族が被災した。1週間経った今も車中泊を続けている。仕事場も家も倒壊したそうだ。まだ地震は続いている。それでもなお、その場から離れられないようである。
自分に出来る事は何か、それを考える時、現在の自分の在り方というものに考えが行き着かざるをえない。自分の価値観や本心や姿勢などが問われる。自分自身によって。私は鈍く想像力がない自分を見た。
東北地震の時は世間に漂う不安の気配に取り込まれ、自分のバイオリズムのようなものの底辺がそれと重なってしまい、知らぬうちに底なし沼にはまり込んだ。泥の中ではどちらが光でどちらが闇なのかもわからない。あの時はそうなるしかなかったのだけれども、引き摺られることに抗って余計に深みに落ち込んでいった。
SNSなどで細かい情報が身近に届いているような気になるが、本当の事は決してわからないと思う。最も重要なことは、繊細で微妙で曖昧だ。そして何か一つでも、少しでも見間違うと、真実は損なわれる気がする。物事の本質は、すぐに認知されないものだと思う。強張った感情や染み付いてしまった感覚というものは、自己処理にとても時間がかかる。声にするにはある程度、精神力と体力が必要なのだ。だから今は、色々なことを見て聴くことだけに集中しようと思う。
こういうとても大きな出来事というのは、実際に自分に影響が有る無いに関わらず、その現実の向き合い方で責任を問われる。私は自分の姿勢を決めなければと思う。
久方ぶりの日記。
日々物事は大なり小なり起こるし、思ったり考えたりすることもそれなりにあるのだけれども、何とは無しに日記に書く気になれなかった。
私自身は冴えない感じなのであるが、状況としては悪くない。いやむしろよい。私を取り囲む有象無象のものらが上手く回してくれているかのような風である。
最近私の考察と実感によるひとつの結論。「全て思った通りに成る」。字面だけで見ると大成功者のような台詞であるが、「願った通り」ではなく「思った通り」というのがミソである。つまり願ったことがあったとしても、それを打ち消すイメージの方が強ければ、それが現象化する。それくらい心の在り方というものは重要で、コントロールすることは難しいのだということをつくづく実感した。
話は変わり、3月下旬から飼い猫おろちとスピカの息子猫トラが2週間ほど滞在している。置き去りにされた怒りも3日ほどで恋しさに変わり甘えてくる。
同時に猫らの交流が増えて不思議なことに、それぞれの鳴き方が変わってきた。年長猫であるおろちの鳴き方を新入りトラが真似し、身体が一回り大きいトラの鳴き方をスピカが真似している。方言を取り入れるような意味合いか。力関係はおろち、トラ、スピカの順位で決定されたようである。以来漂う緊張感が無くなり、互いに干渉しなくなった。
猫社会では干渉しないことが基本的マナーである。だから猫と仲良くなりたい場合、猫好きを全力でアピールして「きゃー!猫ちゃんだ!かわいー!」などと言って近寄ることは猫からするとキモイ、うざい、下品と嫌われてしまう。人間でも初対面でそんな対応だったら不気味なことこの上ない。よく猫は冷たいなどと言う人がいるが、これは猫に無礼者!と怒られている場合が殆どではないかと思われる。
夢見心地で浮ついた気分が漂う花見の盛りも過ぎようとしている。桜も花見もとても好きなのだけれども、この時期は落ち着かない。外界に気が取られるので集中力が無い。
周りは生活を大きく変えていく人が多い。変化の時期かもしれない。私自身も変化を切実に思っている。ブレイクスルーのような。