2017.5.1
巷はGW。私は別段変わらない日々。
先日知人浜ちゃん(舞台女優兼歌手兼エッセイスト)の展示へで新宿BELGへ。作品ともなっている彼女のブログ《空想2%》は面白い。リズムの取り方とか描写の仕方とかユーモアの入れ方とかが、何となく舞台上を思い起こさせられて、度々ブハッとなった。
その後皆で飲みに行った先で、彼女が同じ職場の美人女子が無駄にみんなの注目を集めて仕事に支障を来していることの不条理さを力説していだのだけれども、それは「美人だから仕方ない」という、その不条理さを真理のごとく認める男性陣の結論の前にええ〜〜とガックリ項垂れているのを見て、私は秘かに正直で愛らしい人だなあと思っていた。
結局女が男に求めることは「私を見て!」に他ならないと思う。男についてはわからないけれども。「見て!」と言っているのだから、見たらいいのにと思うが、男性は見るだけに留まらずに余計なことをする場合が多い。意味を問うとか、探るとか、先回りするとか。そんなものは必要ないのだ。女性は好きな人のことを、全身全霊で見ていると思う。
彼女の展示の中に前世の占いの話があったのだが、実は私も前世を占ってもらったことがある。
高校3年生の大学受験が差し迫った時期、私は父と占いに行った。物理を専門とする父は、自分が確かめられないことは信じないという典型的な古いタイプの科学者である。何故そんな父と二人きりで占いに行ったかと言うと、多分よく当る占いとかで私が他所で聞きつけてきて、センシティブになっていた私に父親心で付き合ってくれたのだろう。
さりとて、父の眼前で恋占いなど出来るはずもなく、受験直前で未来を占うのも恐ろしい。仕方なく前世を占ってもらった。
占い師はまず最初に父の前世を見た。父は戦国時代の偉い武将で、片時も肩の力を抜くことがない。武将である父の大きな屋敷の庭には小振りながら立派な池がある。その池には一匹の亀が住んでいて、父が池に近寄ると水の中から出て来て石の上で月光浴をする。その気持ち良さそうな亀を眺めるのが父が唯一和む瞬間であったのだそうな。そしてその亀が、私の前世だというのだ。
亀て。
前世が動物なんて、聞いたことがない。小難しそうな父親と間抜けそうな娘を見て適当なことを言ってるだけなのでは。こいつ怪しい。騙されるかも!と思い即座に横を見ると、とても腑に落ちた様子の父が居た。深く頷きながら、「お父様はその亀をとても大切に思っていて、そのご縁で今世は親子になったのです。」という占い師のまとめを神妙に聞いている。
何を納得してるのだ。めっちゃ娘バカにされてるし、壺買わされるよ!と心の中で叫んだものの、父は既に武将顔で微笑みながらこちらを見ている。結局、父は快く3000円を支払い私は忸怩たる思いで占いの館を後にした。
私の生まれて初めての占い体験であった。以来22歳まで私は占い師というものに対して不信感を持ち続けた。もとい、根に持ち続けた。
しかしその後の色々な経験によりその不信感は無くなったし、改めて冷静に考えてみると、確かに私は月光浴や水中が好きで、歩くという字が名前に入っているように色々のろい。これらを見ると、全く違うとも言い切れぬ。
亀か…何か、テンションは上がらないけど、まあ、どうやら微かにではあるけれども有意義な存在だったみたいだし、まあ、いいか…亀だけど。
という風に今は折り合いをつけた。
以来、ラクダを相棒にしていたエジプト男性とか、中世の壁画職人とか、マヤ人とか、社会的には成功したが愛を犠牲にして後悔し続けた女とか色々言われてきたが、人間でないのは亀だけである。自分ではこうなんじゃないかというのがかなり具体的にあるのだけれども、それは秘密。
雄猫スピカが蚊を追って暴れている。雌猫おろちはちゃぶ台の上の焼き海苔を狙っている。私は生玉ねぎとブロッコリーのサラダを泣きながら食べ、あんまりからかったので今はデーツを囓っている。
そんな5月冒頭の日。