2018.8.9

弟結婚式、大分タピエスイベント、長崎鼻海岸水泳、温泉、高校バレー部、あべりあさんとミヤケマイさん、スピリチュアル恩師、後輩Kちゃん、熊野古道、on the riverhuman museum、台風と秋分。

 

8月。今日は長崎原爆投下の日。今年の夏は色々活動的だった。非日常的な場所に行き、非日常的な人と会った。体感として耕田期に入ったので、自分を立て直したりする準備にはいいかもしれない。

7月後半に母と熊野古道へ。4日間みっちり歩くだけの旅。この灼熱の中、66歳の母がよくついてきたものだ。もちろん熱中症対策の準備は念入りにしたし、常に母にも注意は向けていた。

こうして書くと何だか親孝行な風であるけれども、そういうことではない。先だって私は自分の歩みを優先すること、途中で母が挫折したらそこで別れること、私に従うことを強制的に約束させたので、むしろなぜ母が同伴を希望したのか不思議なくらいである。数年に一度の割合で、私は母とこうした風な旅をすることになる。

前日に福岡入りしていた私と大分から出て来た母は福岡空港から中部国際空港に飛んで、そこから青春18切符で伊勢神宮に詣でた後、紀伊半島の新宮に向かった。深夜23時くらいにビジネスホテルに到着、翌朝6時過ぎの電車で那智に向かって、まずは大門坂から熊野那智大社まで2時間半ほど歩く。

早速大きな杉の木の入口。最初は後ろに中年夫婦がいたのだけれども、いつの間にかいない。入ってすぐに大きな真っ黒な蛇に出会う。

この後の熊野古道中はずっと交互に、黒い人、白い人、黒い羽、白い石など、黒、白、黒、白の順で毎日すれ違うことになる。普段の私なら深く掘り下げてしまうところだけれども、歩みに没頭しているため無意識に限りなく近い意識の部分を漂っていたので、流れ過ぎてゆくようにそれを見ているだけだった。

話は戻り、熊野那智大社から歩いて那智の滝で給水し、バスで那智駅まで戻り熊野速玉大社へ。途中、食堂(柿乃肴)に不意に入りとても美味しい手打ち蕎麦と柿の葉寿司を食べ、そこに置いてあった雑誌の1ページで熊野三山の奥宮である玉置神社を知り、全部予定を変更してまずそこを目指すことをその場で決める。いい雰囲気の同年代の店主夫婦が、色々丁寧に教えてくれた。

熊野速玉大社を参拝した後、店主夫妻に勧められた断崖絶壁にある神倉神社へ。ものすごい急勾配の階段。ここで那智山から度々会っていて「きっとまた会うわね」と言っていたドイツ人夫妻とまた会い、今度は「さようなら」と言って別れる。別れの挨拶をしたから、もう会わないね、きっと。と母と話す。

途中灼熱で干からびかけた私と母は遭遇したベロタクシーという人力自転車タクシーに乗って神倉神社から新宮駅へ。とても好ましいお兄さんが道中街を案内してくれる。途中の果汁100%温州みかんかき氷が安く食べられるかき氷屋さんに止まってくれて、タクシー内で食べる。母はあまりのお兄さんの親切に疑いを持ち、後にそれが全く覆されたることとなっため、旅の最後まで自己嫌悪に苛まれることになる。

その後熊野本宮大社へ参拝。色彩が使われていない、潔い男っぽい神社。八咫烏のマークが非常に可愛い。この旅を不意に思いついてから、神託カードは熊野のものばかり出ていた。しかしながら私は元来の怠け者である。正直言って旅直前は若干面倒な気持ちになり、この熱波を理由に何とか先延ばしにしようとカードを引くとまたしても八咫烏のカードが出たので、腹を括って翌朝旅立った。そういう動機があったため、「来たんだから頼みますよ。」と八咫烏に強迫めいた安全無事祈願をして熊野本宮大社を後にした。

 

急遽予定変更を決めたため、道すがら予約していた宿などをキャンセルしながら玉置神社に行ける一番近い集落である十津川村までとりあえず行くことに。既に山深い場所。バスは一日2本というこの土地で、とりあえず向かうというのは無謀だけれども、ここは八咫烏を信じてダメ元で目的地に定めてみる。着いた宿で詳細を聞くと、やはりバスは平日しかも1日1本しか通ってないということで進路は絶たれた。と思いきや、宿のおばちゃんの配慮で友人のおじさんが早朝仕事前に連れて行ってくれることになった。

 

翌朝6時宿のおばちゃんが握ってくれたおにぎりを持って、玉置神社へ。母と二人きりで誰もいない。樹齢三千年の神代杉が突然前触れもなく目に飛び込んで来た。これはちゃんとしなきゃいかんやつだ。と直感的に思う。恐れを感じる樹なんて初めてだ。裁きの閻魔大王みたいな出立。でももう眼前にいるので逃げることもできないし、完全降伏のような気持ちでしばらく佇む。興奮した母が写真を撮ろうとしたので堅く戒めてその杉を後にする。ギリギリセーフ、のような感じ。母の無邪気さのおかげかも。あんなに緊張を強いられる樹は初めてだ。樹も三千年も生きるともう存在そのものが物質を超越して気の塊のようなことになるのかも。とにかく緊張した。思い出すだけで、今でもドキドキする。

 

緊張感から脱する頃合いに、玉置神社に着く。神代杉とは打って変わって、ピタリと流れが止まったような空間。全く生死の気配がしない場所だった。こんな場所も初めてだ。丸一日いたような、一瞬だけだったような。手を合わせて目を開ける瞬間、パチパチと青くスパークした。

帰り道も同じ道だったのに、あの神代杉に会わなかった。もう一度見たいと思っていたのだけれども。母も同じことを言っていた。あんな巨大な杉を見過ごすなんて。でもきっと、そういうものなんだろう。そういうことなんだろう。

 

玉置神社から下山し、車中でおじさんと話しているうちに何故か熊野古道の小辺路ルートを歩くことになり、登山口までおじさんが送ってくれた。当初の予定としては、初心者コースの中辺路を歩くつもりであった。うだるような暑さで母も一緒だ。途中必要ならバスなどで登山を回避できる道でなければと思っていた。それが不本意にも気づいたら小辺路の登山口。上級者コースの小辺路は殆ど調べていなかったが地図は手元にあり、不安に囚われるのが熊野古道を歩くのには最も適していないと思っていた私は、あえて母にそのことを一切告げずに8時前に登山口で登山者登録帳に記入する。この旅のキーワードは委ねることだ。母に熱中症予防を色々施す。登山開始直前に村営バスが通り、運転手や乗客が窓を開けて「頑張んなよ〜!」と声援を送りながら通り過ぎて行った。

 

ここから、今回の熊野古道の真髄となった歩みが始まる。

「きっと様々なことが起こるけれども、全てはいずれ通り去っていくものだから、動揺せずに自分の感情に囚われないこと。目的はゴールではなく歩くことそのものだから、身体の力を抜いて山に身を委ねて歩みのリズムだけに集中するように。」とまるで私自身が言われているような感触で母に言って入山した。

 

最初から急な登り。登山は身体が慣れるまでの序盤がきつい。もうだめだと思うポイントには必ずお地蔵様がある。これを数えながら休憩もあまり取らずに母と進む。4時間ほど歩いた頭頂付近に観音堂があり、そこで宿のおばちゃんが握ってくれたおにぎりで昼食。田舎の濃い味付けが疲れた身体にとても合う。湧き水で頭から水を被って身体を冷やし、給水して出発した。頭が濡れたので二人とも白いタオルを頭に巻き、たまたま持っていた鈴をお互いの状態を知るために各々手の棒につけた。また何故か登山だというのに私と母は熊野に入った日から、手洗いしながら毎日同じ真っ白い服を来ていて、図らずも何だか巡礼者のような格好に。実のところ白い風通しが良い服は熱中症予防には最適だったようで、昔の巡礼者は理にかなった方法できちんと体力管理をしていたのだなあと感心した。

 

道中上手く説明できぬことが様々あったのだけれども、まあ理解してもらう必要も無いので詳細は省略する。日頃悪い頭で無為に色々考えがちな私が、無思考な瞑想状態のような感じを保ち、母の精神状態を手に取るように感じ、こんなに何かに委ねたのは初めてだったので、本当に気持ちがいい歩みだった。

 

何はともあれ、気づけば体力も精神力も水も食べ物もギリギリのラインで8時間後に下山。15時すぎバス停に到着したが、1日2本のバスは終わっていた。母も既に限界。この灼熱の中このままここに居るのも危険だ。結局ヒッチハイクで車を止めて、仕事へと急ぐお兄さんが大きなバス停まで乗せてくれた。関わる人がみんな優しい。ありがとう。ありがとう。

 

その日は近くの川湯温泉の宿へ。疲れきった身体をほぐす。熊野は温泉地帯なため滞在中は毎日温泉に入れたのが、本当によかった。私は睡眠より食事よりお風呂なのです。食べ物も偶然にも旅の間はずっと恵まれ、天然鮎、柿の葉寿司、めはり寿司(奈良県吉野地方の郷土料理。おにぎりを浅漬けの高菜で包んだもの)、温州みかん(母が道で拾った)、手打ち新蕎麦などが食べられた。

 

翌朝、最終日。当初の予定であった中辺路を歩くことに。発心門王子→熊野本宮大社までの4時間。前日の疲れと気温を考慮して下りのルート。楽な歩きって何だかな。と物足りなく思いながら歩き始めたのだけれども、歩いてみると下りも登りも本質的には同じだと気づいて、戦後の陽動意識の名残である苦労=達成感みたいな呪縛がまだまだあるなーと思った。苦労は報われない。今は幸福感や感謝が報われる時代だ。と思う、個人的には。罪悪感や自己嫌悪が最も無駄だ。何にもならない。誰にも優しくない。自分のプライドを保つためだけの行為。だと思う。後悔や反省もその瞬間に責任を持たないことの産物だ。それをずっとやってきて、そんな自分にうんざりした私の個人的結論です。

 

再訪の熊野本宮大社に辿り着き、安全無事の感謝と報告の参拝をして、熊野古道は終了。バスで紀伊田辺へ。青春18切符で大阪に向かう田辺駅で、突然母のリュックサックが弾ける。風に散乱し舞う荷物。リュックサックは完全に壊れていた。そして同時に私は生理になった。

という結末で、熊野の旅は終わった。