Monthly Archives: 5月 2018

2018.5.15

久しぶりに近所のカフェで読書。「ピカソ講義」岡本太郎と宗左近対談。

「危険な道を選べ」というのは、岡本太郎の有名な言葉であるが、これをそのまま凡庸に実行すると、どえらい間違いをすることになるなあと読みながら改めて思った。二重にも三重にも俯瞰し、自分を見つめて捉えている上での話だな。

危険な道とは、結局のところ自分にとって最も都合よく甘い道だという場合が多いと思う。人は、認められたい、好かれたい、必要とされたいという自己承認や存在価値や存在意義などを社会や他人に求める。でもそれは、満たされないことの方が多い。なぜか。「他に」求めるからだろうな 。それらを自分に向けることが出来たなら、全てが解消されるはずだ。自分の進化次第という結論によって。

つまりそれは、冷静に客観的に自分を見据えることの恐怖に勝てない、自分でせねばならない努力を他におしつけている、現実と理想のギャップに傷つく勇気もない、ということかもしれない。完全に他にも自分にも甘えているということだ。それら全てに打ち勝ってなお挑む人。漫画榎本俊二「ムーたち」の中に出てくるようなサード自分や、フォース自分を持つ人だけが、真っ当に「危険な道を選ぶ」ことができる人なのかもしれない。

自分を疑うことや判断することや叱責することをして、落ち込むような憐憫という甘さを自分に与えるようでは、「危険な道」などわからないのかも。

私の恩師が以前、「鋭くとことん自分を批判しなさい」と言っていて、鈍い私はそれを頭でしか捉えられず、ピンとこなかったのだけれども、ようやく今になってこういうことかもなと、思い至った。

なんだか最近とても自分の頑なさが目につく。斜に構える部分があって、それが発動する時の自分のシステムがまだよくわからない。何かスイッチだか経路があるんだよなー。そして集中力も無い。こうして日記を書いていても色々ズレがある気がするのだけれども、それを追及する根気が無い。立て直しが必要なのか、破壊が必要なのかもわからない。今の私はとても曖昧だ。

お腹すいたけれど、目の前には激甘マーライオンチョコレートと激苦エチオピアコーヒー。帰る気にもなれないので、空腹は忘れることにしよう。

今まさに新月真っ最中。最近密かに祈っていることがある。それが叶いますように。

2018.5.9

千駄木やきとり、図書館で絵本トーク、キトキト誕生日花見、七福神巡り、イケイケ若手美術家談議、スピカの耳垢、くるりライブ、HelloArtMACHI2018、強力ブロック、小沢健二ライブ、毛麻レモンシフォンケーキ、別府になりたいアベリアさん、地元の友人Mの選択 。

先月は今までに無く忙しかった。泡吹きそうだったけれども、どれも一応仕上げたのでちょっと自信を持つことが出来た。能力とか完成度とかいうことではなく、算段が合っていたという点において。

日帰り大阪行きを決行した深夜バス車中にて。バスの振動が熊の唸り声と化し、顔から喰われるという悪夢にうなされ、皆が寝静まったバスの中で「あわわああっ」という絶叫と同時に自分の声で目覚める。隣席のミッキーのブランケットに包まれた女の子の身体がビクッとなった。

私は奇怪な人や場面に遭遇することが多いと言われることがあるが、みんな言わないだけだと全く納得していなかった。しかし深夜バスで突然絶叫する女など奇怪な人でしかない。とふと思ったと同時に、軽く落胆したので、それ以上考えないことに。

くるりと小沢健二のライブ。とてもよかった。音楽も、構成も、言葉の量も、距離感も、信頼度も。

千円でも行くんじゃなかったと思うライブもあれば、1万円でも安いと思うライブがある。それは当然なのだけれども、その当然なことをきちんと考えている人は割に多くない気がする。

くるりは音楽に乗せるのがとても上手かった。こちらが乗ろうと思う前にもう乗せられている。自動エスカレーターみたいに。途中後半に差し掛かった時に、発売予定もない未収録の東京オリンピックをテーマにした歌詞無しの曲があり、それはとてもエキセントリックでリスキーでくるりの価値観がギンギンにわかる楽曲だった。それをビッグウェーブの時にぶち込んできたのを見て、私は一客として何だかすごく嬉しくて泣けた。

岸田さんは他に対する期待値を意識的に低くしている人だと思う。だからこそ丹念に丁寧に謙虚に音楽と向き合い、聴き手の感性だけに頼らない気がする。そんな岸田さんが、あんな音楽を我々に全開で投げて来た時に、岸田さんの予想以上の聴き手への信頼を勝手に感じてしまい感動した。

琥珀色の街、上海蟹の朝も大好きな曲なので、生の「路地裏のニャンコー」を聴けてよかった。始終鼻水垂らしながら狂喜乱舞。

そして今週行った武道館初オザケンライブも最高だった。私はかっこいいベースラインが好き。生のオザケンの音楽は力強くも柔らかな男っぽさがあり、くるり同様明るい全開さを持っていた。オザケンライブも嗚咽鼻水ライブ。

昨日別府のあべりあさんのトークに。愛だとか笑顔だとか普通なら気恥ずかしくて使えない言葉が、真っ当に感じた。そう感じたのはマイケル・ジャクソン以来。本気で使っている人の言葉は水のよう。

最近また夢日記をつけ始める。私には潜在意識の強力なブロックがあり、どうしたものかと長年思ってきたのだけれども、最近細部が明確になったのと同時に外れかけているような流れが夢の中で垣間見えるので、嬉しい。飼い猫スピカにもそれがあり、まあ原因を私は知っているがスピカも外れかけている様で、お互いややこしさから脱却できるかもねーなどと世間話風にしてみたり。

それにしても今日は寒い。

今夜こそ猫らとの湯たんぽ争奪戦に勝つぞと策を練りながら鎌倉からの帰路へ。