2018.10.26
ranbu「絵本原画と風物詩カレンダー展」、銀幕ロックのマケドニアの愛の唄、浜ちゃん亀有ライブ、きび&ぎん、komagome1-14cas「榎園歩希のいろいろ展」、hilma af klint、METAFIVEのDon’t move。
2ヶ月ぶりの日記。先日個展が終わり、色々な友人知人が来てくれてとても嬉しい。来月ドイツに行く資金もできて、とてもありがたい。
私は夏前くらいに色々な展示を見た時に、心を打つものと、そうでないものとの違いについて考えていて、それは最終的に技術に寄るか感性に寄るかということなのではと思い至った。
一見同じ方向性の絵でも、中心を鷲掴みにしてくる力の次元がまるで違う。技術とは作家の努力、つまり説得力と誠意だ。他のものならば誠意で感動を起こすかもしれないが、芸術においてはそうでない気がする。作家本人の、中心を明け渡すまいとする本気の抵抗、あるいは世界の核を捉えたいという分不相応で我が儘な欲望。なんじゃないか。それは人間として最も無様さと滑稽さと恥を伴う。それでもなお諦めきれぬ衝動。それが燃え尽きない人を才能ある人と呼ぶのかもしれない。
技術が不要と言っているのではない。技術を尽くした果ての話である。果てで何を見るか。技術は所謂過去とも言える。それを第一に見るということは、その時点でもはやモノになる。モノでなく存在にするには、自分の意味不明説明不可能な感性に飛び込むしかないんじゃないか。だからピカソもクレーもミロも自分の得た最高ともいえる技術をかなぐり捨て、常に未知なる一点に目を向けていたんじゃないのだろうか。
などということをしばらくずっとうっすらと考えていた。まあ技術の果てなどほど遠い私などがそんなことについて考えても仕方ないのだけれども、そんな私ですら案外技術というのは楽しく結果につながりやすいので、知らぬ間にその大波に乗ってしまう危機感をうっすら感じてしまった。技術を得る事に最も快感があってはいかん。そこを目指してはいかん。
そんなことを何故今日記にこうして暑苦しく書いているのかと言えば、それは今回個展で自分の絵の流れを見て、そういうさざ波の予感を感じたからだ。私にも自分なりに得た独自の技術というものがちんけだけれどもあって、そこにしがみつこうとしている浅ましい自分の姿が見えてしまった。それが描くことの目的になってはだめだ。手段にとどめなければ。私は誰かを説得したいのではない。そのためには、もっと自分が自分の中心に触れていかなければ。あー久しぶりの日記は色々込めてしまって見苦しい。まあいい。私は見苦しさ満載の人間なんです。
個展の話に戻る。個展中のイベントで浜口寛子さん(music)とカフェ・ド・カトー(eat)に参加してもらった。浜ちゃんの音楽は、誰かが誰かのために作っているカレーの匂いとか、まっさらなおろしたてのカーテンとか、ぼんやり立ち上る真夏のアスファルトの蜃気楼とか、そういう不確かさと確かさの間のようなものを、濃密な空気感としてふんわり掌の中に手渡して広げてくれる。私はそういうことがとても好きだ。彼女の柔らかな直向きさにぐっと来る。カフェをするまいちゃんも、彼女の独特な強いクセのようなものがセンスとして形になるその不思議さは、感動的だ。私の年配の知人が「気配が強く残る人ね」と的を得たことを言っていた。そんな二人との雨と稲光の中のイベントはみなとても楽しんでくれたようで、本当に嬉しかった。
今年は台風が多かった。東京に直撃した時、飼猫らがいつものように私の近辺からいなくなり、家の崩壊が心配ではらはらして眠れぬ深夜、心許なくて猫らを探してみると、なるほど風音が聞こえない仕事部屋に2匹でじっといた。これは確かに比較的安心だと思ってしばらく猫らとその部屋でぼんやりする。ふと根底に深い安らぎが横たわっているのが感じられた。熊野で何かが落ちたのかもしれない。不満や文句など、なにひとつないなと月を見て思えた私は、とても幸せな人間だと言える。ありきたりな話だけれども、最近全てに感謝が絶えない。今日は満月。やさしく、ひとしく、みなを照らしますように。