Monthly Archives: 8月 2019

2019.8.8

最近展示が続き、他の仕事も詰まっていたため3ヶ月ぶりの日記更新。

アサクサ個展「潜入するドット」、ranbu「星を売る店」、貧血気絶、強烈な苦味欲求、Fish & Chipsの会、国会図書館、在宅医療クリニックデザイン、参議院選挙、塩田千春、ボルタンスキー、高畑勳。ドイツ一家、ポエムポスター、ニャンコ募金、神田裏庭URATE「三角標」展、バストリオ「黒と白と幽霊」、表現の不自由展。

暑い。今年は汗をかきまくろうと思ってエアコンをぎりぎりまで使用しないと決めたのだけれども、ぎりぎりは早々に来た。猫が居るせいもあるが、以来24時間つけっぱなしである。今年も電気代に恐々としている。

「三角標展」が大盛況かつ色々な目標を達するに至り、とても嬉しい。みなさん本当にありがとう。ありがとう。この三角標というのは宮沢賢治の銀河鉄道の夜に出て来るシンボリックなモチーフのひとつである。幼少期母に誕生日プレゼントでもらった銀河鉄道の夜に出会ったことから、私の感性は創造に向かい始めた。今このポイントに帰着したのは、どういうことにつながるのだろう。私は自分が夏生まれなせいか、見えないものとの濃密なコミュニケーションを取ることになる機会が、夏にとても多い。今年はどんなものと触れ合うことになるのだろう。

先日塩田千春展を見た。古来より女性が秘密裏に、時には神秘的にひた隠しにしてきたものを、これでもかというくらい暴いて晒していて、そのことにまず「ずるい!」と反射的に嫉妬してしまった。女性というものはやはり受容そのものだ。だから土地やエネルギーやそこに流れる想念などを、知らぬ間にどんどん入れていく。そうして重さを伴っていく。だから女の方が地に近い。

方や男は天に近い。ここに在るということを身体で感じるより、精神で感じる。常に何かから脱しようとする。だからどんどん捨てて、軽さを伴う。そこには意志がある。男性は能動そのものだ。

男は女を天に近づけたい。男はそれが女を救う術だと確信している。女は男を地に近づけたい。それが男を救うなどとは思っていない。女もまた救われたいと思っていない。そこにある重さを共に味わおうとする。

塩田千春はその女のどうしようもなさ、理不尽さに愛が宿りうるということを女に思い起こさせる。女の芯を刺激する。けれども重さが無い。浮遊し増幅し共鳴しながら天でも地でもない領域に向かう。

最近縁あって神田の気律均整治療院に。私はとても帯電質らしく、そこで購入した黒い石(名前は失念)のペンダントをつけたら今までスマホで手がびりびりしてたのが無くなった。みんなそうだと思っていたら、違うらしい。やはり電化製品壊しまくりの原因は私だったようだ。弟に「気付いてないだろうけれど、あんたは帯電質なんだよ」と高飛車に言っていたが、猿の尻笑いとはこのことである。

そして第2、第3のチャクラが閉じ気味なため(かつてkuuさんにも言われたことがあった)創作活動の負担がそこに行くとのこと。その負担の原因は「過剰な探究心」らしい。そう言うとストイックな風に聞こえるけれども、「過剰」なので「無駄に」ということだろう。無駄。無駄…。

夏は水分を帯びた粘着性が異常にあって、しかしながら思考は散漫で、まとまらない。展示後しばらく私はアザラシと化して、猫らと部屋に転がっていた。買い物に行くのも面倒で、電球が切れた部屋で4日間過ごしている。昨夜は真っ暗闇の中、手探りでとうもろこしを食べた。携帯の液晶の白々した光で2匹の猫の目が鋭く反射している。私は無言で強気に見つめ返してみる。猫って基本的に視線を合わせないが、たまに妙に合わせてくる時がある。「あなたがアザラシ化するのは構わないけれど、残り少ない私の飯を確保しているんでしょうね?」という強い意思が込められた猫の視線に、負けた。ゆえに翌日である今、私は盆休業前ぎりぎりで猫飯をネット注文し、仕事をするべく近くのカフェに出た。やる気が出なくて、こうして日記をつけたりなどしているのだけれども。

今日は上弦の月で立秋でライオンズゲートでかつ世界の猫の日だとか。派手な日だ。全く手をつけていない仕事を前に、今からフレンチフライなるものでも食そう。そして多分全く仕事をしないまま帰宅し、梅酒飲みつつ猫らと月見でもするか。