2019.2.12
大事なものと天狗、健康診断、イケマムラレイコ展、立春と新月、パリパリ再現計画、プリンセスメゾン完結巻、金色のバス、ボヘミアン・ラプソディ、神田裏庭urate。
立春と新月が来て、先月の元旦よりも新年という感触。カーペットをコインランドリーで洗って、活けていた花と寝室の幾何学模様のポスターを替える。小さな金色のだるまに目を入れ、猫のグルーミングをして石の位置を変えた。
私はムードにのりきれないところがあって、正月やクリスマスやお花見などのテンション高くふわふわした空気が好きではあるのだけれども、同時になんだか落ち着かない。だからこうして日々の中に慎ましくささやかに訪れる変わり目を感じて自分なりに過ごすことの方が、向いている。
プリンセスメゾン完結巻を読む。こんな風に細やかな粒子で優しく満ちた世界を感じながら、過ごしていきたい。私はのろまで何をしても時間がかかって周りの大人に心配されていた子供だったが、その分本当にじっくり時間をかけて目に映る世界を見ていたような気がする。雨が降った直後の草木に下がった水滴が落ちる時の音を想像してみるとか、寝転んで見るどんどん流れる雲に感覚のリズムが合ってゆく感じとか、枝を折った時の美しい痛みの音とか。今はカチカチした無機質な時間軸のリズムに合ってしまっている部分が多い。そうするとスローモーションに繊細に物事を感知することができにくくなる。私は東京に来て、随分お喋りになった。伝えようとする努力は大切だし、話したい相手に恵まれていることも嬉しいことなのだけれども、言葉にしてしまうとそれで収まってしまう何かがあって、私はその収まってしまった感覚があまり好きではない。
ある日バスに乗っている時にぼんやりとしていたら、何故か急に脳内スイッチが空想バージョンに切り替わり、バスの車内が金色の半透明(樹脂みたいな)になって、そのきらきらした輝きが乗っている人々の顔に反射してとてもきれいだった。宇宙バスってやつができたらこんな感じかしらと、自分の空想ビジョンにしばらく見惚れる。子供の頃はそういう白昼夢のような空想ばかりをしていたなあと思い出して、その気持ちよさを久しぶりに体験した。
先日たい焼きのパリパリについて記述したが、ついには自宅で毎日作っている。重曹を入れたり小麦粉や牛乳、水の配分や鉄のフライパンの温度などを日々研究して、2週間かけて同じものではないけれども納得できるものができた。私はこういうくだらないことに使う集中力が変にある。折角なのでここにレシピを載せてみます。
・小麦粉おおさじ3/牛乳おおさじ2/きび砂糖おおさじ2分の1/塩ひとつまみ/
これを混ぜて、くせのない油こさじ1をひいた鉄のフライパンに生地大さじ2をなるべく薄くのばし(その方がぱりぱりになる)、弱火で軽く焦げ目がつくくらい焼く。この分量で、それが2枚できます。おやつに最適。興味ある人はぜひ作って感想を聞かせてほしい。
ボヘミアン・ラプソディを観る。後半泣きっぱなしだったため、人が殆どいない西新井のレイトショーで本当によかった。「どれだけ捧げられるか」なのだと思った。努力とか姿勢とかいうことではない。その翌日弟に勧められてモーツァルトを描いた「アマデウス」を観て、彼はその才能をサリエリという宮廷音楽家に嫉妬妨害されて非業の最後を遂げるのだけれども、多分それすらもモーツァルトの才能を輝かせる一役になったに過ぎない。「捧げた人」というのは実存在という意味で、無敵だ。人がつい中途半端に求めてしまう主観的な存在価値というものを、すでに完全に手放しているからだ。
話はボヘミアン・ラプソディに戻るが、飼猫トムとジェリーに「お前こんなものかと思っているんだろう?違うぞ!」と本気で言っているシーンが一番好きだ。何て可愛げがある人なんだ。全力な人って愛しい。無様でも。