2015.1.13

村上隆の五百羅漢見に行く。日本で最も世界で活躍する美術家は見ておくか、くらいであった。

圧倒された。作品の良し悪しや好き嫌いというようなことは全く問題ではなく、彼の徹底した姿勢がそこにはあった。素っ裸で真剣を手に真向かいで、「で、あんたは?」と問われる感じである。ここまでされたら無視出来ない。五百羅漢というモチーフ自体が、とてもあざとい。日本人は軽んじれないし、海外にはウケる。震災後というサブテーマを引っさげて、よくもこんなことをやれるもんだと呆れそうになるけれども、お金にならなきゃ意味が無いということを大前提としているのは最初からであるし、呆れる人などはなはから相手にしていない。今まで相手にしていなかった日本にも、震災をきっかけに目を向けて来た。キャラクター化することで、日本人にとって嫌味に写りやすい村上隆自身のイメージチェンジを何喰わぬ顔で仕掛けて来た。あざとすぎる。

村上隆の作品を批判するのは簡単だけれども、彼の姿勢や在り方を批判出来る人はそういまい。あのベクトルの強さは半端な人が批判出来るようなものではないし、ベクトルの向きなど美術の場合大した問題ではないと私は思う。村上隆が今何を考えていて、何をしようとしているのか、少しわかったような気がした。

その後フランク・ゲーリー建築展へ。これまた圧倒された。彼の粘り強さに。最初作った模型から完成まで、何十回も試作している。当然のように思われるだろうが、これは実物の模型を見なければその粘りはわからない。作りたいものは「人間的な建築」だそうだ。こちらも明解。

久しぶりに展示を見てかなり精神力を使ったため、へろへろで帰宅。
私は影響を受けやすい。複雑化して解釈する癖がある割には、影響は簡単に受ける。他人の生き方に感動している場合ではないと、威丈高にテレビを片付けることに。しかしいざ片付け始めると、あ、明日は毎週楽しみにしているオトナの!と、おそ松さんが‥‥そういう娯楽を排除するという禁欲的なことが果たしてよいのか‥‥などと、この後に及んでウジウジ考え始め、決意を固めるためにカードに頼るという、意思の弱さを露呈する結論に。2回ひいて、同じカードが出て片付けろと出たので、迷いは吹っ切れて片付ける。他人が見聞きしたら、さぞ馬鹿馬鹿しい光景であろう。

テレビ無き空間は、猫らがすぐに陣取った。うむ。以前より美的だなと納得。

疲労困憊なので長湯してすぐ就寝。

下弦の月がきれい。