2016.4.24

またしても日記が開いてしまった。

その間に九州で震度7の地震があり、エクアドルでも地震があった。

私自身が東北地震の時ととても似たような状況であった。異なるのは、立場の逆転だ。前回の時は被災者ではなかったけれども、心配される側であった。今回は私が地元を心配する側だった。親族が被災した。1週間経った今も車中泊を続けている。仕事場も家も倒壊したそうだ。まだ地震は続いている。それでもなお、その場から離れられないようである。

自分に出来る事は何か、それを考える時、現在の自分の在り方というものに考えが行き着かざるをえない。自分の価値観や本心や姿勢などが問われる。自分自身によって。私は鈍く想像力がない自分を見た。

 

東北地震の時は世間に漂う不安の気配に取り込まれ、自分のバイオリズムのようなものの底辺がそれと重なってしまい、知らぬうちに底なし沼にはまり込んだ。泥の中ではどちらが光でどちらが闇なのかもわからない。あの時はそうなるしかなかったのだけれども、引き摺られることに抗って余計に深みに落ち込んでいった。

 

SNSなどで細かい情報が身近に届いているような気になるが、本当の事は決してわからないと思う。最も重要なことは、繊細で微妙で曖昧だ。そして何か一つでも、少しでも見間違うと、真実は損なわれる気がする。物事の本質は、すぐに認知されないものだと思う。強張った感情や染み付いてしまった感覚というものは、自己処理にとても時間がかかる。声にするにはある程度、精神力と体力が必要なのだ。だから今は、色々なことを見て聴くことだけに集中しようと思う。

 

こういうとても大きな出来事というのは、実際に自分に影響が有る無いに関わらず、その現実の向き合い方で責任を問われる。私は自分の姿勢を決めなければと思う。