2017.11.7
満島ひかり舞台「羅生門」、河瀬直美監督「光」、鎌仲ひとみ監督エネルギー講座、センチメンタル、女の質、鈍感さについて、ボブという名の猫、怒りと笑い(感情の反動)、破綻、feel9&きんじ、先輩らとオールナイト、敏腕美容師による弾けたヘアカラー、酉の市、お金がない。
久しぶりの日記。書きたいことは色々あったけれども、PC状況がよろしくなくできなかった。そうこうしている間にあらゆることが流れ忘れていく。9月に下書きしていた日記から始まるので少し今とはズレがあるが、まあよい。
9月に河瀬直美監督の新作「光」を鑑賞。よかった。
恋愛とは、「交換」なのかもと思った。臨場的な気持ちの交換、相手と自分の皮膚や温度の感覚の交換、体液の交換、抱える思いだとか喜びだとか痛みの交換。ある人との出会いをきっかけに夏中何となくずっと意識していた「独占」について、ちょっと答えの糸口になるような気が。独占か。そうかもしれない。
夏は完全に終わり、秋を過ぎて冬に入る。
夏の気温と湿気で空中に漂っていた輪郭が定まらない、とりとめのない気持ちだったり物事だったりが、秋になって少しずつ形と色を持って降りてくるように染みていく。きっと夏までのことがはっきりするのだろう。でも今はあまり予測しないでおこう。私の場合、予想は限定を伴う。
最近テレビで観た興味深い生命学者の話。
動的平衡における生命活動とは、破壊と創造の同時進行でなければ前に進まない車輪のようなものなのだそうだ。そしてほんの少し破壊の方が多いため輪の規模が少しずつ小さくなり、生命は死に向かう。そして動的平衡における病気とは、破壊より創造の方が少し多くなった状態のことをいう。つまり、創造よりも破壊が少し多い状態が「正常状態」ということになる。なんとなく逆のイメージだったが、とても得心した。精神論ではよく語られる話ではあるが、別分野の観点からも同じことが言えるというのはとても納得できる。こういう時に微かに真理のようなものを感じる。滅することに向かうのが正常。うーむ、これは結構大事なことな気がする。
なぜそんなにも上記の話に関心を持ったかと言うと、最近のキーワードが「アイデンティティの破綻」であるからだ。これは恩師が勧めてくれた吉福さん著「世界の中にありがなら世界に属さない」の受け入りである。私は昔から取り繕ってしまう癖があって、それがなかなか抜けない。丸く納めるとかまとめるとか、そういう本質的でないことをよくしてしまう。これは一見いいように捉えられるし、まあ必要な時もあるのだけれども、結構厄介な癖である。つまり私は「破壊すること」がとても苦手だ。上記の話を参考にするならば、これはちょっと問題だ。
昨夜は友人らと浅草酉の市へ。祭は好きだ。通常みんな人混みは嫌だろうし私もそうだが、それは何故かというと多分、触れたら微かにでも感化されるからだと思う。電車のラッシュや街中などでは、様々な人々が様々な心理状態でいるので、開いていると知らぬ間に感化されていてとても疲れるのだ。でも祭では皆多少わくわくしているから閉じる必要もあまりない。「触れる」ということは結構大事だと思う。一緒にいた3人全員おみくじが凶だった。
噛み合わないのが連鎖する時がたまにあるけれども、それは無意識な拒絶な場合もある気がする。悲しいけれども、仕方ない。意識的には関わらない方がお互いのためだ。
今、近くのカフェでこの日記をつけている。今までは何時間もコーヒー一杯で居座っていたのだけれども、インターネットが家にない私は、頻繁に通うため当然顔を覚えられてしまった。そのためたった今注文したチョコレートケーキの生クリームが完全に溶けて、意味を成していないことに物申したい気持ちを抱きつつも、生クリームが仇となったチョコレートケーキを黙って食べる羽目に。また出たよ。取り繕う癖が。大したことではないけれども。
去年と同様簡易炬燵を設置したので、飼い猫どもは全く私に構わなくなった。逆にこちらは、寒くなりただでさえ温もりが恋しい。冬毛になった猫らはそれを満たすのに最適なので、強引にスキンシップすると、猫の嫌気が伝わってきて先ほどの話ではないが感化される。しかし猫に関してはそれも想定内だし許容しているので、何ということはない。嫌がる猫らの腹に顔を埋める日々。
ここしばらく怠けていたので、困窮していることに気づく。働こう。新たな展示も決まったし、来年の予定も色々決まりつつある。怠け期間終了です。という宣言をしなければ腹が決まらない39歳の立冬。