2020.12.26 東京離れ

東京を離れて2週間。飛行機が離陸した瞬間込み上げてきたものはあったけども、色々な処務に追われたり、考えたり決めなければならないことが山積みだったせいか、その後全く感情的にならずに何だかするりと意識から東京が抜けた。

28歳の時揉まれようと思って上京し、予想以上にぐりぐりに急所を揉まれ、激痛に泡吹いて白目剥いて現実逃避した後、段ボール被り指穴開けて覗くような段階を経るなどして、東京で心地よく居るのに結局10年程かかった。当初私は自分のことをまるで把握できておらず、自意識と自我とプライドだけがやたら高いたまにいる勘違い若人だった。

東京で過ごしていつの間にやら14年。何とか自分なりに心安らかに生きている。それは自分の努力や運や直感だけがもたらしたものではなく、私の周りにいてくれる人々の采配と厚意と直感を、ただひたすら感謝と共に受け取って来ただけだ。私は自分の思考より、信頼できる他者の私を見る目の方を、重視している。

40代という死が微かに感じられるようになった時機とコロナが合わさり、人生の限りを実感したことがきっかけとなり、私は自分の大部分を決定的に諦めた。自分の未熟さや無能さや歪みなどを何とかしよう試行錯誤、七転八倒した30代を経て、今。

結果どうにもならんかった。

ただ、自分可愛さが故に自己に没頭していただけだ。自分を大切にするとはそういうことではないと、40代になってようやく気づいた。自己の進化や成長のために生きるのをやめた。それはとても楽で面白く気持ちいいが、それを必死で成して私が今より多少マシな人間に成ったところで、それが一体何だというのだ。悩んで反省して求めているうちに、人生は終わる。

今の自分の力量と器でやっていこうと決めた。自己満足のために自分の器を大きくする努力より、自分という器をうまく使う知恵の方が重要だ。例えそれが大した器でなくとも、必ず役に立つ場面はある。40代になって、ようやくスタート地点に立ったような気分だ。

そんな決意がまたゼロから始めるスタート地点へと、私の背中をぐいぐい押していった。新しいことに興奮するような感じというより、ただ何だかやけに軽やかな心持ちだ。私が楽に生きるための移住であるからかもしれない。上京した時とは真逆の目的である。

年内は実家で過ごす予定で、猫らと実家の仏間に居るのだけれども、おろちは仏壇の上や天井の柱などを縦横無尽に駆け巡ってさらにスリムになり、スピカは飾ってある能面や訪れる野良猫への警戒心から暴飲暴食した果てに2週間で丸々と肥えた。

私はというとろくなことがない日々だが、新しいことの前にはこういう時期はあるものだと経験上知っているので、あーあと思いながら過ごしている。来年には上向きに変わってほしいもんである。

2020.8.9 死者と近しくなる

8月6日8時15分広島原爆投下。8月8日ライオンズゲート。8月9日、11時2分長崎原爆投下。黙祷。

夏はとても死者と近しくなる。私がいつもよりも死者に開いているせいかもしれない。この日記を書いているまさに今も、涙がこみ上げてきた。今また、誰かの残された思いが私を通り過ぎていった。8月に入ってお盆を過ぎるまでは、こうした時間次元に入るので、いつ泣くか分からない状態になる。悲しいとか苦しいといった感情の種類まではわからない。ただ、エネルギーとしての感情波のようなものが寄せて来る。私は普段殆ど泣かないため、情緒不安定だと思われるので、この時期は気をつけて人に会う。まあみんな夏は忙しいので、大方夏はひとりだ。

坂口恭平パステル画個展に行く。コロナ中から始めた彼の絵はどんどんリアルになっていき、今はもはや現実を超えた凄味が出ている。筒井康隆が、いい創作とは凄味が溢れているものだと言っていたっけ。常時全次元に全開な人だということが絵を見ればわかる。坂口恭平と内田也哉子(樹木希林の娘)がこれから物凄いことになっていく予感。自分の視点だけを鮮烈に持ち続け、そこから見えるものだけを信じて他者の視点を意に介さずに歩いてきた人たち。そういう人がきっとこれから台頭してゆく。私はもうブレにブレて来たタイプの人間なので、そういう人への憧れと注目度が強い。

絵を描いていると、その絵が「立ち上がってくる」時がある。それはそうとしか言えないもので、その直前までは全くその気配なく突然立ち上がる。だから「作品にはならないかも」と期待をしないところからのスタートになることが殆どだ。最初から「これは行けるかもしれない」というものほど、案外後にだめになる。その期待を頼りにしてしまうからだ。創作中、作者から作品が離れて独り立ちすることがあるとはよく聞く話だ。私の場合はなかなかそれまでに時間がかかる。つまり私が懇切に付き合ってやらなければならない。そして突然、四足歩行だったのが二足歩行になる。まさに「お、立った!」という感じ。手間がかかる子のようだ。今これを書いていて気づいたが、絵が「立ち上がった」のはまだ所詮二足歩行の段階なのだな…。

コロナになって、創作に対する考え方ひいては自分の人生の使い方の軸が大きく変わった。今は人に絵を見せたいと全く思わない。今描いている絵は、もはや誰にも見せたくない。何故そう思うのか、自分でもよく分からない。夏は自己分析することはしないことにしているので、今は分からないままでよい。

まあ、今後も絵は見てもらうのだけれども。私はそうして見せることによってややこしく微細ではあるが自分の光のようなものを世界に投げかけることができる。見てくれる人がいる限り、見てもらいたいと思っている。ただ、「見せなくてもいい」というのは私にとってかなり大きな可能性になった。

今日も暑くなりそうだ。猫は私を避けているかの如く姿を見せない。レイトショーのナウシカはよかった。明日あたりもののけ姫のレイトショーにでもいくか。

2020.7.8 初夏の局面

夏至と日食と新月、甥っ子との蜜月、どんぶりのメロン、新しい居場所、新しい扉を開く友人たち、マドモアゼル愛さん、捨ててよ、安達さん。

大分への移住を考えている。実家に戻るのではないし、居住地域も殆ど馴染みが無いところであるので、私にとっては移住という感覚である。

ここ数年ずっと何となく曖昧にして決めることからやんわり逃げてきたことを、このコロナによって圧縮して考えさせられて、決断させられ、新しい可能性に飛び込もうとしている昨今である。まだ気持ちが追いつかないが、逆に言えば追いつかないのは気持ちだけで、私の身体や感覚や状況など、いわゆる処の「流れ」というやつは既にそちらに向かっているような気配があり、諦めに似た覚悟のようなものを持とうとしている。

私は変化というものが得意ではないし、出来れば何も起きることなく平穏に過ごしていきたい怠け者であるのだけれども、自分が歩く道に発生したことについては、案外すんなり認めて変化に沿うところがある。今の飼い猫2匹との出会いもそういった類のものであった。「ああ、くそ。出会ってしまった。仕方ない。」というような。今フリーランスとして生きているのだけれども、それも前の職場を辞めざるを得なくなったことからスタートした。

けれども、過ぎてみればそう思っていたのは自分だけで、今と同様に気持ち以外は全てそちらに開いていたような気がする。なので、今はあえて自分の気持ちに目を向けず、感覚に注意を向けている。

先日飼い猫おろちの耳の中が爛れていたため病院に連れて行ったのだけれども、イケメン獣医師に「お母さん、こちらにどうぞ」と言われて面食らってしまった。私は飼い猫どもと親子関係でいたことも、そう感じたことも、一度もない。猫と人間。それに尽きる。私と猫の関係は決して擬似親子関係などではなく、異種である猫と人間の全身全霊の関係である。

そんなことを、おろちが検査などをされている間に待合室にて考えて、今後お母さんと呼ばれることは御免蒙るので、よし、断ろう。と決意した直後、イケメン獣医師に「榎園さ〜ん」と呼ばれて颯爽と診察室に入った。色々結果などを聞き大したことではないことがわかり安心して診察の終盤になり、ここだと思って出た言葉は「今って、お母さんとか呼ぶの、普通なんですかあ?ちょっとびっくりしちゃいましたよ〜☆」などとヘラヘラして何が言いたいのか全くわからない軽薄な有様になってしまった。結局そう呼ばれることの拒否意思をはっきりと伝えることができず、自分の無様さに打ちのめされて、病院に連れてこられてここぞとばかりに色々検査をされて激怒する飼い猫おろちを伴って、家路につく。

病院に行った日の朝、都知事の投票に行った。まあ結果は大方予想通りではあったけれども、自分の意志表明を自分自身に突きつけるためにした投票は、個人的にはとても満足だ。今の私にはそういったことがとても大切な気がする。今までは自民を落とすために民主に入れるとか、この人は選出されないだろうからこの人に入れる、などという投票もあったが、私が「政治的」なことをする必要はない。選挙の結果と自分の価値観は別次元の話だ。

大雨や洪水で日本は大変なことになっている。災害のたびに、野良猫や野鳥などの動物はどうなっているのだろうと毎回思ってしまう。今ある全ての命が余すことなく救済されますように。

以前の日記にも書いたが、生れ月なせいか私は夏に何か大きな局面を経ることが多い。今年は移動かもな…。

2020.5.10

自粛生活2ヶ月目に入った。3月末あたりから2週間くらい、浅草花やしきのジェットコースター程度の躁と鬱を経て、その落差に目が回り疲弊した後、これまたパグの迫力くらいの感情決壊によってパニック状態は終結し、今はナメクジのように静かにぬめぬめとゆっくり移動しつつ凪いでいる。

今のところの結論として言えば、私個人はとても充実した日々を過ごしている。以前よりも食生活に気を使っているし、毎日欠かさず筋トレをしているし、人に見せる予定が無いので全く好き勝手に描いているし、興味深い人々や組織が様々な配信や展開を見せてくれるし、失いつつあった甥っ子の私への関心もリモートワークショップ的なもので少し取り戻しつつあるし、時間があるから読みたかった本も読んでいるし、外出しないからお金も使わないし、収入が無いこと以外は何の問題もない。それすらも本当に問題と言えるのか、と今は考え始めている。

コロナへの恐怖心や不安が、ここに来て政府や利権や経済システムに対する抵抗や革命精神に移行している。あのような震災ですらも感傷的な出来事としてパッケージされてしまい変わらなかった日本が、みなそれぞれ個人的な切実さが加わったため、今変わりつつある。あの時解き放たれたのは悲しみで、今回解き放たれたのは怒りだ。私はこの世の重さは感情だと思っているので、個人的にはとても合点がいく。悲しみと怒りが昇華されれば、この世はかなり軽くなるんじゃないかと思う。そういう意味でも、世界はだいぶ変わるかもしれない。重力から解放されるとものごとは反転する。

しかしながら、私自身はポジティブハッピーパラダイスの楽観的な期待感覚ではない。境界線ギリギリの際にいる様な気がしている。期待するというのは、どこかで他人事な視点だ。だから私の場合心身はリラックスはしているのだけれども、常にアンテナを出している感じだ。ニュースになったUFOでも来ないかしらとアイスバーを食べながら猫らと毎晩ベランダから眺めているが、飛行機すら全く見えない。今は飛行機も飛んでいないんだな。と思い当たる。

たまたまツイッターを見ている時、坂口恭平さんが絵を希望者に送るよと電話番号と共に公開ツイートをしたので、反射的に電話をしたら「まじでかかってきた。ウケるw」と言われた。私が一番最初だったようだ。ドギマギしながらも、結局4日後に絵は届いた。

実のところ私はちょうど人の絵を見たいなあと強く思っていて、その時浮かんだのが横尾忠則さんと坂口恭平さんだったのだ。描いていて唐突にまだまだ自分にはポーズや構えが根強くあることに気づき、これはあかんと思い、そういうものが一欠片もない人の絵を見たいと思った。今見るべきは技術的な絵やプロの傑作などではなく、「生(なま)」だけの絵だと直感的に思ったのだ。

坂口さんの「仮想美術館」としての絵を受け取った人は30〜40人くらいだったようだ。自分の住所をDMで送り、着払いで届く。5月いっぱい味わって返却。気に入った人は交渉して購入可とのこと。そのアイデアとスピード感と信頼と自信に私は感動し、刺激になった。それを無断で自分のものにする人は一人も出ないと思う。未来の美術のあり方の片鱗を見たような気がした。そこには何の違和感もなく、明るい気配があった。

今七尾旅人さんの生配信を見ながらこの日記をつけている。猫どもが異常な食欲。夏毛になる準備が整ったようだ。私はまだしばらくはかかりそうだ。自分の見方だけに注意を払おうと思う。他人のことを考えている余裕も度量もない。思いついた時にできることをすればいいと思っている。今はどれだけ自分に集中できるか、が勝負だと感じる。あー、深刻風な物言いが我ながら鬱陶しくなってきたので、日記を終わる。みんなが健やかであるように。

2020,4,10

世の中が大変なことになってしまった。

ウィルスも当然脅威なのだけれども、何より自分の軸を揺さぶってくるのは様々な情報に付随する人々の感情の波だ。コロナは地球の環境浄化だと言う人もあるが、私はむしろ感情浄化なんじゃないかと思う。制作最中で本当によかった。今は自分にとって最も本質的なことをやっていなければ、自分を保てない。

一昨日はスーパームーンやら釈迦誕生日とやらで意識的にリラックスしたいい時間を過ごしたため、今日は描かずとも大丈夫かもと思い、無駄に収集した海外の美術館のポスターでゴミ箱を作ってみたり、チャゲアスの鼻歌を歌いながら家中の拭き掃除をしてみたり、洗濯して猫を虫干ししながらベランダでコーヒーを飲んだりなどしてみたのだけれども、漂う感情のざわつきにたちまち肩を掴まれてしまい、結局夜は絵を描いた。

5Gとコロナの関係性疑惑のようなYoutubeを知人がシェアしていて感覚的に妙に腑に落ちたため自分でもシェアしたのだけれども、反応はすこぶる悪かった。私は電波というものに目に見えるくらいの物質性を感じていて、それは不可視だからこそ脅威だ。であるからにして、5Gはとても恐ろしい。電波(電磁波)はウィルスととても近しい作用を感じる。電波は意識に振動しながら侵入し、ウィルスは細胞を振動しながら侵入してくる。電波は人間の感情に同調しやすく、ウィルスは免疫システムに同調しやすいのでは。全て私の想像なのだけれども。どちらも、避けるには孤立するしかない。しかし孤立というのも、これまた人間を内側から振動して弱らせる。

私は猫2匹と同居しており、通常は皆別々の部屋で寝るのだけれども、今年に入ってから私の寝室に集まることが多い。猫も不穏を感じているのかしら…というのは飼い主のセンチメンタルな幻想である。猫の在り方は絶対的なので、人間の感情波で揺れたりなどしない。人間のように「どちらでもいい」という曖昧な感覚が無い。猫が私の部屋で眠るのは、彼らにとって何かしら自分本位の快適な理由を見つけたからに過ぎない。こういう時私にとっては猫の存在は有難いのだけれども、猫にとっては私が家に居過ぎて煩わしいようで、拒絶的に押入れの奥などに隠れていたりすることが多くなった。なるべく猫の機嫌を損ねないように、適度な距離感と無関心を保ちつつ、静かな動作を心がけて過ごしている。

通常よりも友人知人家族と連絡をとることが多い。生活の見通しは闇だけれども、絵はどこでも描けるし、気にかけてくれる人はいるし、今ガムを噛みながらこうして日記をつけている。

全世界の祈り率が、あらゆる感情のカオス率を超えた時、コロナは終わるんじゃないかと思ったりする。祈りは自分と他の境界線を無くす唯一の感情のような気がする。全てが等しく救われますように。

2019.8.8

最近展示が続き、他の仕事も詰まっていたため3ヶ月ぶりの日記更新。

アサクサ個展「潜入するドット」、ranbu「星を売る店」、貧血気絶、強烈な苦味欲求、Fish & Chipsの会、国会図書館、在宅医療クリニックデザイン、参議院選挙、塩田千春、ボルタンスキー、高畑勳。ドイツ一家、ポエムポスター、ニャンコ募金、神田裏庭URATE「三角標」展、バストリオ「黒と白と幽霊」、表現の不自由展。

暑い。今年は汗をかきまくろうと思ってエアコンをぎりぎりまで使用しないと決めたのだけれども、ぎりぎりは早々に来た。猫が居るせいもあるが、以来24時間つけっぱなしである。今年も電気代に恐々としている。

「三角標展」が大盛況かつ色々な目標を達するに至り、とても嬉しい。みなさん本当にありがとう。ありがとう。この三角標というのは宮沢賢治の銀河鉄道の夜に出て来るシンボリックなモチーフのひとつである。幼少期母に誕生日プレゼントでもらった銀河鉄道の夜に出会ったことから、私の感性は創造に向かい始めた。今このポイントに帰着したのは、どういうことにつながるのだろう。私は自分が夏生まれなせいか、見えないものとの濃密なコミュニケーションを取ることになる機会が、夏にとても多い。今年はどんなものと触れ合うことになるのだろう。

先日塩田千春展を見た。古来より女性が秘密裏に、時には神秘的にひた隠しにしてきたものを、これでもかというくらい暴いて晒していて、そのことにまず「ずるい!」と反射的に嫉妬してしまった。女性というものはやはり受容そのものだ。だから土地やエネルギーやそこに流れる想念などを、知らぬ間にどんどん入れていく。そうして重さを伴っていく。だから女の方が地に近い。

方や男は天に近い。ここに在るということを身体で感じるより、精神で感じる。常に何かから脱しようとする。だからどんどん捨てて、軽さを伴う。そこには意志がある。男性は能動そのものだ。

男は女を天に近づけたい。男はそれが女を救う術だと確信している。女は男を地に近づけたい。それが男を救うなどとは思っていない。女もまた救われたいと思っていない。そこにある重さを共に味わおうとする。

塩田千春はその女のどうしようもなさ、理不尽さに愛が宿りうるということを女に思い起こさせる。女の芯を刺激する。けれども重さが無い。浮遊し増幅し共鳴しながら天でも地でもない領域に向かう。

最近縁あって神田の気律均整治療院に。私はとても帯電質らしく、そこで購入した黒い石(名前は失念)のペンダントをつけたら今までスマホで手がびりびりしてたのが無くなった。みんなそうだと思っていたら、違うらしい。やはり電化製品壊しまくりの原因は私だったようだ。弟に「気付いてないだろうけれど、あんたは帯電質なんだよ」と高飛車に言っていたが、猿の尻笑いとはこのことである。

そして第2、第3のチャクラが閉じ気味なため(かつてkuuさんにも言われたことがあった)創作活動の負担がそこに行くとのこと。その負担の原因は「過剰な探究心」らしい。そう言うとストイックな風に聞こえるけれども、「過剰」なので「無駄に」ということだろう。無駄。無駄…。

夏は水分を帯びた粘着性が異常にあって、しかしながら思考は散漫で、まとまらない。展示後しばらく私はアザラシと化して、猫らと部屋に転がっていた。買い物に行くのも面倒で、電球が切れた部屋で4日間過ごしている。昨夜は真っ暗闇の中、手探りでとうもろこしを食べた。携帯の液晶の白々した光で2匹の猫の目が鋭く反射している。私は無言で強気に見つめ返してみる。猫って基本的に視線を合わせないが、たまに妙に合わせてくる時がある。「あなたがアザラシ化するのは構わないけれど、残り少ない私の飯を確保しているんでしょうね?」という強い意思が込められた猫の視線に、負けた。ゆえに翌日である今、私は盆休業前ぎりぎりで猫飯をネット注文し、仕事をするべく近くのカフェに出た。やる気が出なくて、こうして日記をつけたりなどしているのだけれども。

今日は上弦の月で立秋でライオンズゲートでかつ世界の猫の日だとか。派手な日だ。全く手をつけていない仕事を前に、今からフレンチフライなるものでも食そう。そして多分全く仕事をしないまま帰宅し、梅酒飲みつつ猫らと月見でもするか。

2019.5.22

いつの間にやら新時代到来。

今「潜入するドット」という展示の最中である。暇な時間が多いが仕事や読書をする気にもなれず、ふと思い出して日記を書くことに。というか、しばらく私はこの日記そのものを忘れていた。こういう記憶喪失的にある日突然に習慣を忘れることが、たまにある。

今回の制作はきつかった。心情的に嫌だった。誰の目を楽しませるでも面白がらせるでもなく、どっぷりと自分の内側に向かうだけの作業。こんなにテンションが低い制作は始めてだった。でも自意識過剰がゆえに描いている私にはこういうことは外せない。こんなことが必要な自分にもうんざりするし、こういうことを見せることしかできない作家としての力量にも幻滅するが、仕方ない。いまさらそんなことはどうでもよい。

とはいえ、嫌なのは気持ちだけで、身体的・感覚的にはとても滑らかな制作だった。熊野古道を歩いた時と同じような。目的は完成(ゴール)ではなく描くことそのものなので、自分の呼吸やリズムやテンションや筋肉の動きやバランスのポイントなどが繊細にわかる。だんだんと状態に委ねていって、集中とぼんやりの間、いわゆる瞑想状態のような感じだったような。制作が終わった日は、満月だった。

おろちとスピカの息子猫トラがしばらく里帰りしている。毎日スピカに喧嘩を売りに来ていた近所の失礼極まりない野良猫らが、トラの巨猫っぷりにおののいて全く来なくなった。

ここ数日猫らの深夜活動が凄まじく、全く眠れない。昼夜逆転だったため自律神経が乱れまくって熟睡できない私と、夏毛へ生え変わるため体調と機嫌が不安定な猫ども。我が家は今全員とげとげしている。

今は甘いものが全く食べられない。お茶っ葉とコーヒーとシュガーレスガムばかり食べて毎日お腹を壊しているので体力がなく、家にいる時はだいたい転がっている。とにかく身体が苦味を欲する。身体もとげとげしている。

とげとげしている私と、テンション低いディープな展示という、人様に来てとは言えない状態ではありますが、来てください。ぜひ。

「潜入するドット」~5/26(sun)12:00~19:00 アサクサギャラリー

2019.2.12

大事なものと天狗、健康診断、イケマムラレイコ展、立春と新月、パリパリ再現計画、プリンセスメゾン完結巻、金色のバス、ボヘミアン・ラプソディ、神田裏庭urate

立春と新月が来て、先月の元旦よりも新年という感触。カーペットをコインランドリーで洗って、活けていた花と寝室の幾何学模様のポスターを替える。小さな金色のだるまに目を入れ、猫のグルーミングをして石の位置を変えた。

私はムードにのりきれないところがあって、正月やクリスマスやお花見などのテンション高くふわふわした空気が好きではあるのだけれども、同時になんだか落ち着かない。だからこうして日々の中に慎ましくささやかに訪れる変わり目を感じて自分なりに過ごすことの方が、向いている。

プリンセスメゾン完結巻を読む。こんな風に細やかな粒子で優しく満ちた世界を感じながら、過ごしていきたい。私はのろまで何をしても時間がかかって周りの大人に心配されていた子供だったが、その分本当にじっくり時間をかけて目に映る世界を見ていたような気がする。雨が降った直後の草木に下がった水滴が落ちる時の音を想像してみるとか、寝転んで見るどんどん流れる雲に感覚のリズムが合ってゆく感じとか、枝を折った時の美しい痛みの音とか。今はカチカチした無機質な時間軸のリズムに合ってしまっている部分が多い。そうするとスローモーションに繊細に物事を感知することができにくくなる。私は東京に来て、随分お喋りになった。伝えようとする努力は大切だし、話したい相手に恵まれていることも嬉しいことなのだけれども、言葉にしてしまうとそれで収まってしまう何かがあって、私はその収まってしまった感覚があまり好きではない。

ある日バスに乗っている時にぼんやりとしていたら、何故か急に脳内スイッチが空想バージョンに切り替わり、バスの車内が金色の半透明(樹脂みたいな)になって、そのきらきらした輝きが乗っている人々の顔に反射してとてもきれいだった。宇宙バスってやつができたらこんな感じかしらと、自分の空想ビジョンにしばらく見惚れる。子供の頃はそういう白昼夢のような空想ばかりをしていたなあと思い出して、その気持ちよさを久しぶりに体験した。

先日たい焼きのパリパリについて記述したが、ついには自宅で毎日作っている。重曹を入れたり小麦粉や牛乳、水の配分や鉄のフライパンの温度などを日々研究して、2週間かけて同じものではないけれども納得できるものができた。私はこういうくだらないことに使う集中力が変にある。折角なのでここにレシピを載せてみます。

・小麦粉おおさじ3/牛乳おおさじ2/きび砂糖おおさじ2分の1/塩ひとつまみ/

これを混ぜて、くせのない油こさじ1をひいた鉄のフライパンに生地大さじ2をなるべく薄くのばし(その方がぱりぱりになる)、弱火で軽く焦げ目がつくくらい焼く。この分量で、それが2枚できます。おやつに最適。興味ある人はぜひ作って感想を聞かせてほしい。

ボヘミアン・ラプソディを観る。後半泣きっぱなしだったため、人が殆どいない西新井のレイトショーで本当によかった。「どれだけ捧げられるか」なのだと思った。努力とか姿勢とかいうことではない。その翌日弟に勧められてモーツァルトを描いた「アマデウス」を観て、彼はその才能をサリエリという宮廷音楽家に嫉妬妨害されて非業の最後を遂げるのだけれども、多分それすらもモーツァルトの才能を輝かせる一役になったに過ぎない。「捧げた人」というのは実存在という意味で、無敵だ。人がつい中途半端に求めてしまう主観的な存在価値というものを、すでに完全に手放しているからだ。

話はボヘミアン・ラプソディに戻るが、飼猫トムとジェリーに「お前こんなものかと思っているんだろう?違うぞ!」と本気で言っているシーンが一番好きだ。何て可愛げがある人なんだ。全力な人って愛しい。無様でも。

2019.1.23

預言カフェ、プレゼント交換、プリミ恥部の宇宙マッサージ、かまぼこの会、つぐ散歩、R新年会、ムンク展、スピカ歯周病、浜口寛子ライブ、皆既月食満月、たいやきのパリパリ、デザイナー渋谷直人の休日、粕汁、引き寄せの法則、餃子の熱冷めやらず。

あっという間に2019年に突入。私の根深い怠け癖を戒めるため、今年の目標をつけておく。

  • 経済力をつける。
  • Kさんとの絵本制作。
  • ドイツでの展示を決める。
  • 好転的な思考力を身につける。
  • 筋力体力をつける。
  • 大きな絵をつくる。

先週飼猫スピカの歯周病が発覚した。3ヶ月ほど前から、何だか左側の牙だけが伸びてきたなあと思っていたのだけれども、おろちの片方の牙は子猫時代に欠けてそのままだったし、あまり気にしていなかった。それにしてもと思い先日ネットで調べてみたら、伸びているのではなく抜けてきているのだとわかって、慌てて翌日近所の病院に行く。イケメン獣医さんに牙を抜く手術を提案された。私はスピカの太めの牙と盛り上がった口元が好きだったので、かなり落胆してしまった。スピカは私にあまり心を開いていないため、歯磨きができない。たまに予防ジェルをつけていたが、強烈に嫌がりさらに私への不信感が募るため、それもあまりしていなかった。結局口内の環境を整えるためのサプリメントを毎日強引に飲ませることとなり、ジェルなどよりももっと不信感と嫌悪感を増やすことになってしまった。しかしいづれは手術はせねばならない。そしてどうやらおろちの方も手術で歯石を取る必要がありそうだ。

というわけで、私は心痛く反省し、今年は経済力をつけなければならなくなった。私一人ならばゆとりのない生活でものほほんと過ごしていられたのだけれども、愛猫どもの健康に関わることが起こってはそうも言っていられぬ。もっと働かねば!今更バカを晒すようなことを決意表明して我ながら40歳にして痛々しいが、目標に掲げてみました。2018年は一応目標はクリアしたので、今年もクリアすべく思考と行動をコントロールしよう。

先日ムンク展に行った。終わる間際だったため混雑。白黒の木版画「接吻」に心底感動してしまい暫く動けず。恋人であろう二人を木目の木漏れ日のような光と影が包み、溶け合うような密に満ちたさまが、息を飲むように美しかった。その絵を見つめているうちに、抱き合う二人の形が本当に解けていき、そこには圧倒的な普遍的感覚だけが残るように感じられて、ムンクの凄味を改めて思い知った。ミュージアムショップでムンクの自画像のバッチを買ってとても気に入り、出かける時に胸につけている。

先月友人が遊びに来た時にうちの近所のたいやき屋で焼く時に出るカスを売っていたらしく、それをお土産にくれたのだけれども、それが劇的に美味くて完全にはまってしまった。しかしそれは本来正規に売っているものではなくたまに出るという代物で、常にあるわけではない。私はハマるとしつこい。毎朝起きては、今日はパリパリはあるのかしらと思うまでに。恥ずかしいので3日に一度と決めて買いに走る日々。しかしあまり入手できない。ついにたいやき屋の人に何時に来ると確実に買えるのか聞いてしまった。すると、私と同じように猛烈にハマっているおばあさんがいるらしく、出たらすぐに買い占めていくのだそうだ。むむむと唸っていたら、店員さんがお情けで「少しですけど」とそのその日のパリパリをただでくれた。私はお返しに持っていたチョコレートをあげた。

今この日記を書いている直前にうまくパリパリを手に入れることができたので、内心早く日記を終わらせて家で食べたい。実はまだ買えそうな感じだったけれども、私はそのおばあさんに譲るような気持ちで通り過ぎた。買い占めるなんて、そんな自分さえよけりゃいいようなおばさん体質になるのは、絶対いやだ。

などと、かえって自分の器量の小ささが顕になることを書いていたら、突然今居るカフェで真っ赤な服のまんまるなおばちゃんが、カラオケ大会のようなものを始めた。どういうことなんだ。最近ノリが悪いと言われたので、ここで聴く姿勢でいたらノリに乗れたことになるのかしらと思いつつ居たら、オシャレ男子のカラオケになったため、やはり出ることに。コーヒーもちょうど無くなったし、と思っていたら、今度はアニメソングに。地味系女子がセーラームーンを歌い出した。何故か場が徐々に盛り上がっている。みんなノッているが、私はどんどん居心地が悪くなるばかりだ。セーラームーン終わったし、帰ろう。ノリよりもパリパリだ。

2018.12.20

K家の新猫と旧猫、ライブで側頭、競艇と仲人、やら版の活版絵本、石牟礼道子の能と美智子さま、ポーランド展示、ミュンヘンHilma af KlintとEmma Kunz、Hちゃんプロデュース会、保谷めだか、アブリルラビーン的新妻、モテ期T、辛酸なめ子さんと佐藤健寿トーク、白いラナンキュラス。

気づいたら師走。

ここに来て、色々な死の知らせが来る。とても美しい最後の顔。綺麗さや正しさより、美しさを選べているのだろうかと、不意に自己問答の穴に落ちた。圧倒的な美しさは時に人を呑み込んでしまう。死は問いと共にみぞおちにぶち込んでくるので、しんどい。けれども尊い。私が祈る必要などないくらいに。それでも祈らずにはいられない。それもきっと尊いことなんだろう。

先月ポーランドの図書館で展示とトークをする。幼馴染のポーランド人マジャーの献身的な協力のおかげで、とてもいい出会いの機会となった。日本人なのにあなたは明るいねと言われる。あまりの立派な講堂にびびって、気圧されぬよう大御所のような体勢でトークに臨んだのだけれども、それが功を奏したようだ。親切な人ばかりで本当にありがたい機会だった。これからもヨーロッパに縁を繋げていきたい。

私はよく考えすぎだとか、頭が硬いとか言われるので、意識的に思考を追及しないようにしていた1年間だった。それはとても楽だったし、曖昧なようでいて、物事の輪郭線のようなものを感じる時があった。とはいえ、未だ私は霧の中にいて、空気以上のものを微かに掴んでいるくらいの手ごたえしか無く、まだまだ道のりは遠いことを痛感する。

余談だが、私は両親が仕事でドイツに長期滞在していたため、それを利用させてもらったわけだけれども、父が鼾防止グッズを注文したので持って来てほしいと頼まれ持参した。

父がそわそわと開けたそれは腕時計のようなもので、私はその仕組みが気になり調べたところ、鼾をかくと音に反応して身体に電気が流れるという代物であった。それをつけて寝始めた父が鼾をかきはじめると急にピタリと止まる。私には拷問道具にしか見えないのだけれども、何故か父はこれをいたく気に入った。

以来付け忘れないようにと食事中からはめるようになり、たまに大声で笑ったりすると電気が流れているようで微かに身体が震えている父と、それに全く違和感を持っていない母が、私にはどうにも珍妙で見る度に声を枯らして笑っていた。どのあたりで二人が納得してるのか私には皆目わからなかったのだけれども、父の目的は鼾を止めることなので、安眠出来ずともたまに無為に電気が流れても、そんなことはいいらしい。それを共有している父と母を見て、夫婦というものが最も珍妙だと思った。

来年は2019年で平成最後の年だ。文字通り時代が変わる。リアルに生きたい。喋り過ぎもやめよう。受け取っているものを、返す度量がほしい。あとは猫の心身の健康。

みなさん、2018年は本当にお世話になりました。心から、ありがとう。ありがとう。