ひらがなえほん原画展(福岡)、森夫妻、浜勝仲間、西戸崎、誕生日、妄想についての話、もちとうきび大量摂取、ラスコー、執着と独占について、温泉、臼杵のKさん、大学時代の友人C&C、家の修繕、仏壇の部屋に優しい気配、三崎に夏のお出かけ、太陽フレアによる頭痛。
気がつくと9月である。福岡のひらがなえほん原画展には、友人知人、家族、ギャラリー関係の人、ちらしを手に見に来てくれた一般の人など、多くの人が来場。
沢山の友人らも、不義理でへらへらしただけの女に会いに来てくれた。嬉しい。みんな本当にありがとう。
私はみんなによく、「ブレずにずっと続けているよね」と言われるのだけれども、そうではない。何度もブレたし、結局自分の才能に見切りをつけられないだけだ。きっと私に賢く見通す目があったなら、とっくにやめているだろうと思う。自分に創造的な才能やセンスがあるなどと思ったことは、ただの一度も無い。なのに全くやめようとしない自分への憐憫なのである。自分が可愛いから仕方がない、ということに尽きる。
色々な人に会ったので様々なことを思ったり感じたり考えたりしたのだけれども、殆ど思い出せない。メモを取っていないと、すぐに忘れる。出来事としての記憶はあるが、あっと思ったことや、ちらりと過った感覚や、後で考えたい気になるキーワードなど、丁寧に触って覗いて確かめると重要な気付きに繋がることが多い、精妙さ自体のようなことは、本当に捕まえていないとするりと手から逃れてしまう。
幼馴染みのポーランド人姉弟と、大阪で流行りらしい台湾の巨大なかき氷を食す。あらゆることが過剰だ。適度さを考えることから逃げたとしか思えぬ有様。適度さを無視したものは、好きになれない。それが最も難しいし、大切なことだと思うからである。
7年ぶりに別の美容室へ。自意識過剰な私であるが、委ねるということが前よりは少し出来るようになった気が。
明日から東京でのひらがなえほん原画展。進言されたので、この後ひらがなえほんを作ることに至ったエピソードを書こうと思う。
8月。昨日は満月で月食で台風。
「それでも、生きてゆく」をDVD鑑賞。満島ひかりの言葉の発し方がとても好き。溢れたり、こぼれたり、転がったり、投げ出されたり。そんな風に出た言葉は、もはや何だか意味なんか無い音階だけのようで、皮膚だとか心のフィルターだとかの隔たりを、すうと簡単に通過して入ってくる。こんな風に色を乗せたり線を描いたり出来たらいいのに。
私はホルモンバランスにより、毎月頭がイカレる日が2日間ほどある。手帳を遡って調べると、だいたい来月この辺りかなという日が判明したので、その日付けに「気狂い期」とメモ。何だか劇的な雰囲気になってしまった。もう少しかわいらしいお茶目な表記にすればよかった。「٩( ᐛ )و」とか「( ゚д゚)」とか、「☆彡」とか。
飼い猫スピカの話。いない時は当然仕事部屋のエアコンをつけていないのだけれども、「仕事部屋は一番涼しいはず」と決めこんで、暑い中耐えて寝ている。そんな彼の黒い部分の毛が、最近茶色になってきた。黒は暑いという、彼なりの進化か。おろちは猫らしく自分の体感を基準に寝場所を変えている。生物として優れているのは果たしてどちらか。
仕事中の流れで妹の息子の姓名判断を。天運地運ともに良いが、人格だけイマイチで「才能をひけらかさないように。」という凶とは思えぬ助言。
まとまりがない日記。
夏はまとめることが向いてない季節だと思う。だから、これでいいのだ。赤塚不二夫的に終わってみる。あほらしい。
この一週間のことをほとんど思い出せない。つまるところ仕事のみの日々。なので日記も猫の事ばかりであるが、仕方ない。
飼猫おろちが強烈な外出欲で家の網戸を何度も破り、もう網戸を破って外出するものと踏んでしまったので窓を閉め切るはめになり、家が劇的に暑い。私もスピカもほんのり熱中症のような風に。とんだとばっちりである。
利己主義的な行動は、結果的に自分(猫)らの心地よい風が通る窓辺の寝床を無くすことになるなど、ろくなことにならないし、何よりチームを乱すのでやめるようにおろちに説教するも、微塵も反省の色が感じられない。「チームなど知るか。わたしは外に出たい。」という反抗的な気配すら漂っている。おろちの網戸の記憶が消滅するまで窓の締切は決定である。
そういうわけでエアコンをかけて制作をしているのだけれども、私はもともとエアコンが苦手だ。温度差による偏頭痛と肩こりが生じるからである。それに悩まされている話をしたら、友人がショールをかけるなどして肩と首の後ろを冷やさないようにするとよいという。助言のとおりにすると、確かにかなり軽減した。これはだいぶ助かった。
昨日のこと。午後アイデアに煮詰まり本格的な夏の気候の気怠さと相まって、うとうとする。夢うつつで書いたらしいワードがスケッチと共にあり、それが突破口に。下描きを終えた直後に鼻血。ちょっと休憩せねば。おお、なんと今日は七夕じゃあないか。毎年気付いたら過ぎている七夕。今年は6月末の大厄払いもすっかり忘却してしまっていたし、気晴らしに風雅なことに触れたい。ほう、近所の西新井大師で風鈴市なるものが開催されているようだ。いいね、風鈴。いこういこう。気に入った風鈴などあったらひとつ買おう。窓閉めてるから音鳴らないけどね。でもエアコンの下につければいい。いや、エアコンの一定風量の風だと風鈴の音色は一定になって美しく聞こえないのでは。まあよい、とりあえず久しぶりに外出だ!
ということで、早速鼻にティッシュをほんのり詰めて自転車で西新井大師に向う。祭りは完全に終わっていた。誰もいない。週末の準備であろうか、おはやしの練習が聞こえる中、猫好きな人が与えたであろう餌に野良猫ががっついている。その野良猫も私の顔を見るなり「ちっ。辛気臭いやつがきやがった」みたいな顔をしてのろのろその場を立ち去った。とぼとぼ参道を自転車をひきながら歩いていて、血の味が下ってきたので上を見上げると満月に近いおつきさまが。はあ、もすぐ満月か…。
という七夕の日。おしまい。
追記
ずっと欲しいと思っていたが私には高価で買えなかった物が、なんとセールで半額近くになっていた。色やらを迷っていたら売切れてしまい、ネチネチ質の私は忸怩たる思いを3日間くらい味わったのだけれども、以来携帯でネットを開く度にその情報が出てくる。「あなたが欲した情報ですからね」的な図々しさがいやらしい。それを盾に畳み掛けてくる。そしてそれを見る度にまた出てないかしらと、そのサイトを見てしまう。思う壺である。その戦略に負ける自分への腹ただしさよりも、安く買い求めたいという貧乏性が勝る自分が、最も情け無い。そう言えばこの一週間はそれに囚われていたことを、またネットで見て思い出したので追記した。
ちゅーや、シャンプー講座、梅仕事、出張神託カード(30代女子の苦悩)、絵本制作、レモンムース、生田、飯能。
最近顔彩を使用しているので相応しい筆を買うために新宿へ。店員に相談すると、猫の毛の筆をすすめられるというカウンターパンチをくらう。
「筆を作るために殺しているんですか?」と恐る恐る聞くと、確認しに行って戻って来た店員は、「生きている状態で何度も刈るそうです!(ご安心ください!)」と私に満面の笑みを。
あーなるほどね。
その方が効率いいしね。
生きてはいるんだから問題ないね☆
などとなるかボケ。
もちろんその筆は買っていない。多少使いにくくても、アクリルの筆を使うことに。よれよれになってスタバへ。癒しを求め、丁度LINEでやりとりしていた友人に彼女の猫(おろちとスピカの息子猫)の写真を送ってもらう。
レモン体型のとら猫がイームズの椅子に急所丸出しでひっくり返って寝ている。願わくば、世界中の猫にこうあってほしい。
私が今とりかかっている絵本の収益の一部は、都会の野生動物保護の資金に使われる(野良猫、野鳥など)。
それはとても私のモチベーションを上げる。正義感などではない。私は幼い頃より動物に心救われてきたにもかかわらず、自分で積極的に保護等の活動に参加したり資金を出すことをしないので(できないのではなく)、自分の仕事がたまたま役立つという、あくまでも自分にとって最も都合のよい折り合いの付け方なのである。
そんなわけで、その制作に動物の毛を使用した筆を使うという筋が通らないことをするわけにはいかないのだけれども、猫の毛は使いやすいという情報にも描き手としては当然興味はある。レモン猫の毛が向いてそうなので、抜け毛をもらって作ってみよう。
恩師に会う。人は自分を許すことがなかなか出来ないという話。具体的にどうすればよいのかわからないのではと言うと、「自分の最高イメージをすること」という答え。なるほど、わかりやすい。メモ。「進化の流れに乗るには、あらゆることを後回しにしないこと。」払い渋っている家賃の更新料を払おう。
仲間で生田の友人宅へ。立ち止まって空気を感じたくなるような眺めのいい場所がポイントポイントにある。なるほどなあ彼はこんなところを選ぶんだなと、何と無く腑に落ちた。
仕事の友であったレーズンチョコを72%カカオチョコに変えた。濃いため少量で済むのがよい。
町田康の「ホサナ」、池辺葵の「ねえ、ママ」と「プリンセスメゾン」4巻、吉福信逸「世界の中にありながら世界に属さない」とBRUTUS「お金の、答え」「真似のできない人生訓」をジュンク堂で大人買い。
殆ど人に会わず制作。合間に猫と読書。人と会ったり出かけたりするのは好きだけれども、私は本来こういう生活が合っている。
今日は夏至だが梅雨っぽい雨。雨の音を聴きながら薄いコーヒーを飲む。とても精神が安定している。
私は夏に大きな変化の機会が生じやすい。きっと最も力がある季節だからなのだろう。今年は何が起こるんだろうか。今までは猫を両小脇に抱えてブルブルしながらではあるけれども、逃げ去ることはしてこなかったと思う。今年はブルブルせずに、落ち着いていたいものである。
追記
火事等いざという時の為に、猫が逃げられるよう網戸をわざと破れやすくしてあるのだけれども、毎年飼い猫おろちに無駄に破られる。夜中に物音がしたので目を覚ますと、網戸と窓の間に挟まり込んでアニエス・ベーのマークのような有様になっているおろちが。一体何をどうしたいのだ。網戸はまたしても無惨な始末になり、苦々しい気持ちを誰かに言いたいが、人に会わないのでここに追記した。
Kさん逝去、今年もアリ発生、湯島のラム肉料理、プラスチックの焼けた臭いで110番、「時代のメモ」、文字の形の考察、満月、女会、優しい人。
ある曇りの昼間、自転車で西日暮里に向かいながら、私はひとつのことを考えていた。「自分がとても言いたいこと」と、「言わなくてはと思うこと」は、言わなくていいかもなということ。何だか早口言葉のような物言いだけれども。
自分が言わなければと決めて放った言葉ほど伝わらないことが、圧倒的に多い。言わなければと思う時点で自分が正当である前提であり、相手を承認・許容するつもりがない。それは「会話」にはならない。既に結論付けているからだ。私はこういう独りよがりなところが、すごくある。意識しているものの、言いたい欲にたまに負けてしまう。
逆に、「あなたのために言うんだけど」と前置きされて言われたことは、何一つ身になっていないし、「あなたは知っておいた方がいいから」と言われて知る必要があったこともあまり無い。
この話を友人にしたら、「そうだよ。返答だけだよ、必要なのは」と言われて、返答だけだとはまだ思えきれないものの、そうかもなあと思った。
軽快だけれど真面目に会話をする人、相手に沿いながらも率直な会話をする人、自分が発信したことに責任を持つ会話をする人、みな様々に素敵だ。さしづめ私は肯定的に言えば「曖昧だけれど親切な感じの会話をする人」というところか。
又吉さんの「劇場」読了。
切なく苦しい小説だった。若さゆえの。最近はこういう類のものを読むのがしんどくなってきた。話題になっていたので買った漫画「描クえもん」もしんどい。「海街diary」8巻と「逃げるは恥だが役に立たつ」最終巻はよかった。大きな波立ちとして描かずに、静かな波間に煌めいたものや暗いものをたゆたわせる感じが、すっといいリズムとタイミングで心地よく染みる。
そう、今は「染みる」のがいい。
今更ながら河瀬直美監督の「殯の森」を観た。これまた染みた。よかった。死を慈しむことの映画。近々新作公開される「光」も楽しみ。グザヴィエ・ドランの新作は見逃した。残念。
布団の上で寝転んで日記をつけている。目の前には読書灯とアリ対策のハッカ油と、横切るアリ一匹。足元には猫飯が足りない様子の飼い猫ら。
3時だ。眠い。おやすみなさい。
巷はGW。私は別段変わらない日々。
先日知人浜ちゃん(舞台女優兼歌手兼エッセイスト)の展示へで新宿BELGへ。作品ともなっている彼女のブログ《空想2%》は面白い。リズムの取り方とか描写の仕方とかユーモアの入れ方とかが、何となく舞台上を思い起こさせられて、度々ブハッとなった。
その後皆で飲みに行った先で、彼女が同じ職場の美人女子が無駄にみんなの注目を集めて仕事に支障を来していることの不条理さを力説していだのだけれども、それは「美人だから仕方ない」という、その不条理さを真理のごとく認める男性陣の結論の前にええ〜〜とガックリ項垂れているのを見て、私は秘かに正直で愛らしい人だなあと思っていた。
結局女が男に求めることは「私を見て!」に他ならないと思う。男についてはわからないけれども。「見て!」と言っているのだから、見たらいいのにと思うが、男性は見るだけに留まらずに余計なことをする場合が多い。意味を問うとか、探るとか、先回りするとか。そんなものは必要ないのだ。女性は好きな人のことを、全身全霊で見ていると思う。
彼女の展示の中に前世の占いの話があったのだが、実は私も前世を占ってもらったことがある。
高校3年生の大学受験が差し迫った時期、私は父と占いに行った。物理を専門とする父は、自分が確かめられないことは信じないという典型的な古いタイプの科学者である。何故そんな父と二人きりで占いに行ったかと言うと、多分よく当る占いとかで私が他所で聞きつけてきて、センシティブになっていた私に父親心で付き合ってくれたのだろう。
さりとて、父の眼前で恋占いなど出来るはずもなく、受験直前で未来を占うのも恐ろしい。仕方なく前世を占ってもらった。
占い師はまず最初に父の前世を見た。父は戦国時代の偉い武将で、片時も肩の力を抜くことがない。武将である父の大きな屋敷の庭には小振りながら立派な池がある。その池には一匹の亀が住んでいて、父が池に近寄ると水の中から出て来て石の上で月光浴をする。その気持ち良さそうな亀を眺めるのが父が唯一和む瞬間であったのだそうな。そしてその亀が、私の前世だというのだ。
亀て。
前世が動物なんて、聞いたことがない。小難しそうな父親と間抜けそうな娘を見て適当なことを言ってるだけなのでは。こいつ怪しい。騙されるかも!と思い即座に横を見ると、とても腑に落ちた様子の父が居た。深く頷きながら、「お父様はその亀をとても大切に思っていて、そのご縁で今世は親子になったのです。」という占い師のまとめを神妙に聞いている。
何を納得してるのだ。めっちゃ娘バカにされてるし、壺買わされるよ!と心の中で叫んだものの、父は既に武将顔で微笑みながらこちらを見ている。結局、父は快く3000円を支払い私は忸怩たる思いで占いの館を後にした。
私の生まれて初めての占い体験であった。以来22歳まで私は占い師というものに対して不信感を持ち続けた。もとい、根に持ち続けた。
しかしその後の色々な経験によりその不信感は無くなったし、改めて冷静に考えてみると、確かに私は月光浴や水中が好きで、歩くという字が名前に入っているように色々のろい。これらを見ると、全く違うとも言い切れぬ。
亀か…何か、テンションは上がらないけど、まあ、どうやら微かにではあるけれども有意義な存在だったみたいだし、まあ、いいか…亀だけど。
という風に今は折り合いをつけた。
以来、ラクダを相棒にしていたエジプト男性とか、中世の壁画職人とか、マヤ人とか、社会的には成功したが愛を犠牲にして後悔し続けた女とか色々言われてきたが、人間でないのは亀だけである。自分ではこうなんじゃないかというのがかなり具体的にあるのだけれども、それは秘密。
雄猫スピカが蚊を追って暴れている。雌猫おろちはちゃぶ台の上の焼き海苔を狙っている。私は生玉ねぎとブロッコリーのサラダを泣きながら食べ、あんまりからかったので今はデーツを囓っている。
そんな5月冒頭の日。
はなひらりん、会津昭和村、湯西川温泉、花見、子どもの美術、犬ぞり師、金の指輪、コムアイ、制作、恩師との会合、女性向けポルノ、ショートカット、ArtMCHImuseum、絵本の依頼、美女好き甥っ子(7ヶ月)、イカの塩辛。
仕事とプライベート共に活動的な日々。それらが曖昧な境界から自分がしたいと秘かに期待していた仕事が生まれることの面白さ。 私は昔から本当に公私ともに人間関係には恵まれていて、煩わすことはあっても煩わされることはあまりない。今の私のあらゆる成り立ちは全てそういう関係性の中から生じたものであり、常に平伏したい気持ちでいるORZ。平伏したことはないのだけれどもORZ。
私はこの笑い顔の所為かよく人が良いとだとかさっぱりしていると思われがちであるのだけれども、実のところはえぐいほどの粘着質であるし、色々な矯正と鍛錬によって今は基本的に誰とでも関われる方だとは思うのだが、私の根暗でちぐはぐな本質に気付いている人は少ないと思う。と昔は思っていたが、今は割とみな気付いていて呆れたりしながらもつき合ってくれているのだろうなと思っている。それくらい人間というものは隠しているつもりでいても、だだ漏れなのだ。
最近コムアイに注目。前から面白い発言の人だなと思ってはいたのだけれども、松岡正剛との対談でより興味が湧いた。「派手なことではなく、筋が通った過激なことをしたい」何てシャープなことを言う24歳なのだとため息が出た。やはり新人類は着実に進化している。イカの塩辛を爆食いして気持ち悪くなり、チョコを食べてさらに吐き気をもよおしている場合ではない。
私は元来ぐうたら者であるが、ぐうたらすることは私にあまり合っていない。寝すぎると体調が悪いし、暇だと妄想や空想から生じた思考に粘着を帯びて、自分の得意な思考回路を使って思い込み化しやすくなる。つまり濁りやすくなる。だから公私共に誘われて気が向かない場合、その気分の理由を精査し、「面倒くさい」という結論に達した時には行動するようにしている。極論全てが面倒だからであるし、そういう時には動くと必ず意外に楽しい思いをするからである。動機のテンションが低いため、その物事への期待値ハードルが下がる所為だと思う。
昨夜は新月。色々願う。何か示唆的な夢を見たような気がしたが、思い出せない。
相変わらずネット環境が整わないため、今近くのカフェで仕事をしながらこの日記を書いている。仕事を入稿して安心。残りのハーブティーとひとかけらのチョコレートを食べたら、深夜の春の散歩をしながら帰って猫らを愛撫して録画していたクレイジージャーニーでも観よう。
孤独は別に嫌いじゃないと、こういう夜に思ったりする。
今日は昨日に引き続き、とても寒い雨の日。
基本的に制作。合間にファッションショーの打ち合わせ、友人著作の本の装丁、デザインの仕事、餃子パーティー、高円寺のコアなスポット、友人の結婚式でカメラマン。最近仕事の方向性で具体的な目標が出来たので、その話を長時間友人に聞いてもらう。
私は絵を描く事を主軸として一応今やっとではあるが生計をたてていて、それは長年の私の目標であったし、とてもありがたく幸福なことなのであるのだけれども、昔からずっと拭いきれぬ違和感がある。長年それには色々な分析と理由づけをして心から追い払って来たが、それを無視しないと最近決めた。今は、やっと自分のやるべき方向性が具体化していくかもしれないという予感だけがある。自分自身が苦でない方法で世の中に貢献できる生き方をしたい。
先月のとても寒い夜、炬燵から尻だけ出すというわけのわからぬ状態の雄猫スピカを眺めていたら、ふと野良猫は急な寒さにやられてはいまいかと心配になり、直後借家ではあるが我が家は一軒家ではないかとはっと気付いた。早速縁側(この縁側という言葉が出てこず、ネットで「軒先で座る場所」などと検索してしまう)の下に布を敷き詰めた段ボールを用意し、その前に猫飯を置いた。翌日見てみると、寝床は不明だが猫飯を食べた形跡はあって、よしよしといいことをしたような気になっていた。
それから1週間ほど猫飯を入れる日が続いていたのだけれども、雄猫スピカが挙動不審である。何やら発情のような雰囲気でもある。もともと挙動不審がちな猫であるし、冬の終わりは毎年ほんのり発情しているのでさほど気にとめていなかった。
ある夜、外を見ることができるように一階の障子の一角を猫用に切り取っているところがあるのだけれども、そこでいつものようにスピカが外を眺めていたら、外で設置した猫飯を食べている猫の気配がする。これまたよしよしと思っていたら、目を疑うようなことが起こった。食べ終わったその猫が、あろうことかガラス越しのスピカの顔面にスプレー(雄猫特有の臭いおしっこ)を吹きかけたのである。私はもう衝撃的すぎてあんぐりと茫然自失であった。恩義を感じるどころか、なんという高慢な態度。なんでそんなことをするのだ。と見たら、白っぽいぶちのでっぷりと太った巨大な猫であった。
そうなのだ。このあたりの野良猫らは別に何にも困ってないのである。何処かに素敵で快適な場所を決めていて、私のところにはまあ「置いてあるし、どうせなら食べてくか。それなら印もつけておくとするか。」くらいのことだったのだろう。
外からかけられた所を見てみると、何度もスプレーされた形跡がある。我が家の猫を心底馬鹿にしている。こんな無礼な奴にもうやるもんかと猫飯を撤収したのは言うまでもない。段ボールは一応置いておいた。あの無礼巨猫は入れないし、他の痩せた猫には必要かもしれないからである。
慈善的なことをしたつもりになっていた私がしたことは、結果的に野良猫から私ごと飼猫を馬鹿にされただけであった。それによる発情的な風情のスピカの理屈もさっぱりわからないが、とりあえず猫らには悔い改める旨を伝えた。
自分の正義とか善だとかをまるで疑わない人を見ると心底私は恐怖するのだけれども、私も大して違わない。その一連のエピソードを友人に話したところ、「あゆちゃんて感じ」という言葉に小さく刺されつつ苦笑いでお茶をすすった。
最近ミスが色々多い。頭の中がとても分離的で断片的。ほどけていっているような感覚。致命的なミスまではいかないせいか、何故か不安による緊張感などは全くない。最近声占いというものを友人が教えてくれたので近々行こう。
今、近所のよくPCを持ち込んで仕事をしているカフェでこの日記をつけているのだけれども雨が止んだようなので帰る気になったので、終わることにする。
新月、節分、旧正月、まりお誕生、スピカ発情期、凄まじい餃子欲、イカによる消化不良、ドラマ「カルテット」、頭皮のフケ、可愛がられたい話、仮想通貨ビットコイン、ジャスミン茶とレーズンチョコ。
最近の私を要約すると、こういう風である。ひたすら家に居た。展示が迫っているため製作の日々。特に面白いことも辛いことも無い。
面白いことも辛いことも無いが、最近訝しいことはある。加齢現象である。以前老化現象と言ったところ、60代女性に「老化舐めんじゃないわよ」と低音で言われたため、辛うじて30代の私は加齢現象と言わせていただく。
一週間前からずっと気になっているのだけれども、明日8日は何か予定があって、しかしながら手帳には記入が無い。最近のメールやラインを2ヶ月前まで遡って隈無く調べるも全く当てはまるものが見つからない。諦めてブルーレイを鑑賞、終わった後にケースに仕舞う時に挟まっているレシートを見ると、明日の予定はその返却期限であった。私は一週間悶々としていたので、借りた直後に忘却したということになる。
今日は気付かぬ内にバス内で足をつっていて、放置していた時間が長すぎた所為か今も筋を痛めたままで一向に治らない。気付かぬ内に足をつったことなど、かつてなかった。
最近自分の生活習慣を見直そうと考え、まずは食生活であるが、その中でも間食の糖分を減らしたい。ゆえに今まではレーズンチョコだったのを、何かに代替えしたい。出来るなら摂取した方がよいものに代える方が望ましい。私は歯や顎を鍛えたいと常々思っていた。そして口内衛生の為に唾液量を増やしたい。乾物イカだ!と思い当たり、色々な種類の炙るスルメを買い込み、以来毎日おやつに食べていた。が、日に日に胃腸の具合が低調に。一週間経って気付いたのだが、消化不良であった。甘いものを殆ど食べなかった若い頃は、スルメは私の常食であったし、消化不良などなかったのに。
というわけで、脳・足・胃腸ともに衰えが甚だしい。去年人間ドックで視力が上がっていて友人らに自慢気に喜んでいたら老眼現象ではと言われるし、「38から来るのよ〜〜」という諸先輩方の言葉が響く今日この頃である。
若くというよりは、自由でいるため健康に元気でいたい。まずはこの加齢を受け入れろということか。抗うエネルギーも無駄だしなーと、既に省エネ思考である自分を確認し、腑に落ちたので日記を終わる。
寒い。最低気温-2°とのこと。
今日はセンター試験らしい。私も20年前にインフルエンザで高熱の中受けた。前日に滋養の為と就寝前に高価な栄養ドリンクを3本飲んだのだけれども、逆に目が爛々としてしまい、何故と思い説明書を読むと一日に一本以上飲むなと書いてある。翌日不眠で試験に臨み、初日の一時間目の数2で残り30分というところで1ページ飛ばしてしまっていたのに気付くという失態。瞬間絶望したが、人間局面では意外と腹が括れるものである。
入試中に他校の受験生がトイレで亡くなったという知らせ。どうやら持病があったらしい。一瞬それがさざ波となって生徒の間を駆け抜けていったが、すぐにみな目の前の試験に目を向け、その話は二度と立ち上がらなかった。
私は真冬に大学の小さな遮断された空間で、穏やかだったであるはずがない孤独な果ての光景のビジョンが、頭にこびりついてしまった。以来、凍るような寒さを感じた時に、その光景を思い出す。冷たさという感覚の中に、そのビジョンは閉じ込められ、今も氷漬けされたように色褪せることなく私の中にある。
3日間のセンター試験は終わり、熱が下がらないままの私は保健室で採点。二度採点確認したが全く合わなかった。諦めて熱でぼんやりしながら、やはりあの光景を思い出していた。どうしようもなく不快で逃れたくて堪らない熱さと、どうしようもなく哀しい冷たい光景と。同情などの感情移入は全く無く、ただただその対比を見つめていた。
そういうわけで、センター試験は私にとって忘れ難い思い出だ。結果的に試験の惨敗と、何故か自信満々に、実技の人物クロッキーで全身を描かずに上半身肖像画を描いてしまうというあり得ぬミスにより、志望していた国立大は全て落ちた。
しかし、その後私は滑り止めの大学で人生を大きく転換させる人との出会いがあり、今東京に居て、こんな日記をつけていることになるのだから、人生って本当に摩訶不思議なものである。
東京に来て10年。そろそろ、また自分の環境や居場所について考え始めている。