大分から帰って仕事が落ち着いたので友人らと会ったりダーニング(つい最近友人に教えてもらった靴下などの穴の補修)をしたり大掃除をしたり。
今年は風邪をひくこともなく健康であった。しかし先週はずっと外食が続いたため、胃腸の具合がよろしくない。私は基本的に粗食であるので、ご馳走に胃腸が慣れていない。消化活動は元来胃腸が弱めの私には負担が大きいのかもしれない。
クリスマスに友人宅で鍋。キリストにしか見えぬ風貌の友人が歌うクリスマスソングでプレゼント交換をする。私はピータンとカタツムリパックと別府の湯の花をプレゼントに。私は「読んでみたい文庫本」セットをもらった。「読んでよかった文庫本」セットでないことがいい。それくらいの遊びと適当さがよい。
過去もらった手紙の話になり、私が取っておかないことについてみんなが割とひいていて、そのことにびびる。その場で捨てたりはしないのだけれども、きちんと読んで短期間保管後に捨てる。3枚だけ残してあるが。私は手紙のやりとりをする方だと思う。自分の手紙はなるべくすぐに捨てて欲しい。残されると思うと、色々余計なことを考えてしまう。
つい数日前にも親から子供時分にもらった手紙の束が送られて来たので、全部丁寧に目を通した後に捨てた。
不思議なことに子供であった私は、手紙の便せんの柄だとかイラストだとか、多分気に入ったのであろう部分を全て切り取っている。文章よりも柄の方に興味を持ち、無遠慮に切り刻んでいる自分の感性を見て、ちょっと考え込んだ。しかも好きだった男の子からの手紙だけがない。気に入った切り抜きと好きな男の子からの手紙を私はどうしたのだろう。
昔引っ越しの際に小さな木箱が出て来て、その中にはゴミのようなものばかり入っていて、あろうことか毛髪まで入っていて、あまりの不気味さにこれは何だろうと暫く思索。突如思い出したのであるが、それらは高校時代に恋い焦がれていた人が「触れたもの」ボックスであった。自分のことであるにもかかわらず、薄ら寒い。
割と男女ともに交友関係が広く、明るめの学生生活を送っていたのだけれども、密やかに自分の一部分をタブーとして封印事のように扱かうことがあったことを思い出す。かわいらしい宝物箱などではなく古い木箱というところがさらに不気味であった。小学校3年生くらいの時も、虫や生き物の死体に出くわした日には学校に行かないというルールを設けていたこともある。子供時分というのは、きっと誰しもがこういうわけのわからぬような部分があったと思う。
お腹が空いたので日記を終える。
師走に入り、ようやく冬らしくなってきた。
私の家は古い一軒家であるため、隙間風などがあり寒い。暖房も寝室にしかないので、居間に簡易的炬燵を作ってみた。ほほー、なかなか暖かいではないか。などと安堵に浸っていたのだけれども、問題が生じた。簡易的炬燵であるため、かなり狭い。私一人入れば満杯である。家には飼い猫が二匹居る。当然彼らも寒い。不満が募っていたところに炬燵という天国が出現。猫らも直ぐさま炬燵真っしぐらである。そして前述した通り、炬燵は私一人で満杯の状態。
自ずと24時間家に居る猫らに炬燵を占拠されてしまった。「ちょっと詰めてもらえませんかねー」などと言って炬燵を開ければ、シャーッと言われる始末である。私は結局凍えながら居間にいることに。何たることか。腹立たしくもあるが諦め、炬燵の電源を切り外出。
帰宅していつも迎えに出る猫らが全く出て来ないので炬燵を覗くと、二匹の飼い猫が身を寄せ合って私を光る目で睨みつけている。どうやら炬燵の電源を切った私に激怒している模様である。ええ〜と声を漏らす私を許す気配も無い。
以来、24時間炬燵の電源を入れているため、電気代だけが嵩むはめに。以前はあった、身を寄せ合って、寒いね、などというコミュニケーションも無くなり、猫どもは始終炬燵で過ごし私になど目もくれない。こうなると最早炬燵が憎い。が、炬燵をやめた時の猫どもの怒りの方がもっと怖い。
こうして、セーターを1枚買い、寒さに耐える日々である。今月は割とゆとりがあったはずだけれども、多分電気代とセーター代で相殺されるであろう。
そんな風にして、私の地味な生活も2016年の終わりに向かってゆく。
2017年も猫ともども、無事でありますように。
かなり久しぶりの日記である。
私は日記を完了するのにとても時間がかかる。下手すると2日間くらいかかってしまう時がある。最も言いたいことが、意外と結果的にくだらない内容になってしまったりしているので、削除したり簡潔にしたりすることが多い。という言い訳から始まる日記というのも無様であるけれども、まあよい。
夏以来の日記であるけれども、その間に色々なことがあった。その中でも最も大きな出来事といえば妹の出産である。偶然であるが私も出産の現場に。妹の出産はとても危ういものであった。私と妹の夫は深夜真っ暗で人気のないホールで、呆然としながらも緊密で集中した祈りを一瞬たりとも絶やさなかったように思う。そしてそういうことは、案外物事を左右しうる気がする。
先週福島でまた大きな地震。東京は震度3。大きく揺れ始めたら、私の上で寝ていた猫らが散り散りに逃走。やはり私に頼るつもりなど一切無いらしい。収まった後にさらりと戻ってきた。言い訳じみた何かしらの反応を期待したが、そんなものは無いという風に私の上で丸まる。猫に期待は禁物である。
友人が暫く我が家に滞在。彼女は今とても大きな岐路にいる。私は少し前に、その岐路を穏やかに丸く収めるべく彼女のとある場面に参加したのだけれども、今となっては穏やかに丸く収めるなどということは少しも重要ではなく、破壊的な中から本音に伴った活路を見出すべきであったと反省。器量以上のことはするべきでない。
一昨日福岡経由で大分へ。11月中は54年ぶりだという東京大雪の日。昨夜は近所の鷲神社に酉の市へ行き、甘酒を飲みながら冬だねと喋っていたものだけれども、この雪で極め付けに。
最近ひとつの答えが出る。
私が常々自分の長所だと思っていたものが、実は短所である場合があるということ。そしてその場合というのが、今は大部分であること。短所が長所になりうる可能性をここ1年ほど探っていたのだけれども、まさか逆とは思わなかった。
昨夜馴染みの温泉に。出たら座敷で羽生結弦のショートプログラムが始まるところで、予め待っていたらしいおばあさんと母と3人で見る。始終ポイントでおばあさんが「最高〜‼︎」と興奮していたり、拍手したり。演技終了後に拍手が湧いたが、私は演技そのものよりもブラウン管を通した羽生くんに、頰を上気させて喜ぶおばあさんの在り様と、羽生くんの存在価値に感動して拍手したのだった。
顔を綻ばせたままおばあさんは脚を引きずって浴室に消えた。その引き摺る音と頰の赤さが何となく余韻に残った。
夜明け前の海、シンゴジラ、満月、盆踊り、台風、実家から葡萄。8月の要略。
在宅で仕事したり作業したりだが、基本的にダラダラしていた。暑いからあまり外出していない。夏を味わえてない気がしていたが、ビールでほろ酔い後の盆踊りでそれは割と解消された。
今日は朝から健康診断と初マーモグラフィ。激痛だと聞いていたが、大したことはなかった。私は痛感覚に対処するのが、割と得意だと思う。リラックスしながら意識をそこから遠ざけるのがコツである。俯瞰的感覚のような。
背丈が5ミリ縮み、視力が回復。
夜は鎌中ひとみ監督の原子力最終講座へ。人は見たいものしか見ない。私も当然その一人だが、然しながらこのことは生命に関わる。私には、見たくないでは済まない。判断を迫られた時に決断するための知識を蓄えておくことは、文字通り運命を左右する。
昨日男友達が、1年半くらい思いを寄せられているが恋愛対象には絶対なり得ない女の子に対する気持ちが、2日前突然それが覆ったという話。その瞬間が彼にはわかったらしく、そしてそれはとても些細なことだった。
しかし外から見ていた私には、どうしても彼が彼女に好意を持っていないとは見えなかったし、他の人の場合もそういう現場は割と目撃するので、自分の本音に気付いてない人は、とても多いんだなと思った。
先週、結婚間近な友人宿泊。
今週、地元の友人宿泊。初めて日光へ。
相性の話。
一般的に言われる相性とは、大体が共感度の高さや価値観の一致等のことのように思う。それらは環境や育ちや経験による後天的な要素が多いし、私はそのことを相性と呼ぶことに、ピンとこない。
私が見て相性がいい関係とは、素敵な可能性が広がりうる関係のことだ。そしてそれは、概して全く違う性質の二人な場合がよくある。合うように思われない二人が出会って惹きつけ合って関わること自体が摩訶不思議で、その引力のようなものを、私は相性と感じる。「うまいこと」、違うのだ。その「うまさ」が相性の要だと思う。だから簡単にはわからない。ゆえに、「相性がいい人」はいないが、今相性がいいなあと思う時はたまにある。それはお互い自然に居ながらも相手への思いやりが絶えずある時に、ミラクルが起きるからだ。ミラクルは相性がいい時のサインだと、私は認識している。相手への思いやりが途切れて自分の思いが一人歩きを始めると、それは一気に無くなる。つまるところ、相性がいいというのは、「相手と調和する努力を常にお互いがすることが出来る相手」だと思う。
だから簡単に相性がいいだの悪いだのという話を聞くと、怠けてんなあとか、甘えてんなぁと思ってしまう。
話は今日の出来事へ。朝から北千住の人気パンケーキに並ぶ。そんな女子的な事もたまにはいいではないか。結果、一度でよいという感想。
代官山の美容室へ。整髪後に餃子が食べたくなり、中華店に入るも、餃子だけを注文する勇気が無く、ラーメンも頼んだのだけれども、先に来たあまり美味しくないラーメンを食べて満腹になってしまい、餃子を食べられなくなるという馬鹿げた事態に。ミラクルどころか。
夜、地震。足立区は震度3。
地震が起きると、私はいつも飼い猫らを呼ぶのだけれども、飼い猫どもは必ず急いで私の側から散っていく。飼主の私に頼る気が全く無い。それはちょっと信頼関係に問題があるのではと考え込んだが、自立心は良い事であるし、私の懐に逃げ込んだとしても私の鈍な行動で全滅するのがオチである。結局のところ逃げて生き延びてくれさえすればよいので、飼い猫らの判断に納得しつつ就寝。
昨夜は蚊の襲来で眠れず。
早朝に猫らが空腹を訴えて来たため、仕方なく起床。新しく猫飯を変えたら、猫らの食欲が凄まじい。猫も毎日ずっと同じものというのも不自然であるし、感性が鈍くなりそうなのでたまには変えてやりたいが、こうも食に対してがめつくなるのも、如何なものか。
自分の所為で不毛な事態が起こってしまった場合、正当化しようとしたり取り繕おうとせずに、諦めて放置していると、うまく収まっていたりするという発見。ケースバイケースだろうが、こういう時は空回りが連鎖しやすいのでひとつの手段とするのは、よいかもしれない。
夜、前の職場で飲み会。
33歳のオシャレ男性が、最近髪が薄くなってきたから女性ホルモンを増やす為に豆乳や納豆をしこたま食べていたら、胸が出てきたとのこと。
笑ってしまった。これまた不毛な事態ではないか。
けれども、これは前述のケースに当てはまるか分からないし、異なった場合にかなり遺恨を残すと思われる。
というわけで、進言しなかった。
彼に胸でなく髪を与えてくれるよう願いつつ、深夜に帰宅して就寝。
弟のひきこもりロードムービー映画「奴」の先行上映。多くのひきこもり当事者の人々が来場していた。
猛暑の中、日曜日の渋谷に来ることはきっと彼らにとっては気楽なことではないだろう。葛藤と決心と弱気な気持ちと希望の狭間を泳いで来るのだ。
帽子を深々と被り、マスクを着けて長袖を着込んで細く絞り出すような声で「当事者です」と言う小柄の女の人(ひきこもり当事者は観覧無料)。彼女はどんな物語を持っているのだろう。
打ち上げでひきこもり当事者の方々と。終電のため微々たる時間であったのだけれども、自分は発達障害だと言う人々のコミュニケーションは、私には何も違和感がなかった。
いつも思うのだが、人と接することが苦手だと言う人の多くが、会話や対応するということにとても繊細で真面目だと思う。彼らはじっと相手の話を聞こうとする。理解しようとする。私を含めて、そう出来る人は多くはない。人はだいたい他人の話を聞くより、自分の話をしたいものなのだ。
自分の過去の話をして、当事者の方々に擦り寄ろうとした私の想像力の欠如と不真面目さに、帰りの車中でうんざりする。同じような体験の有無を語るなど、何の意味もない。重要なことは、同情ではなく直観だと思う。
深夜に読書目的で近所のファミレスへ。今日は何もしないと決めて何もしなかったのだけれども、やはり何となくこんな1日で良いのかという罪悪感が陽が沈んだ後に襲って来たため、それを誤魔化すためにやって来た。
筒井康隆の短篇集「ウィークエンドシャッフル」と糸井重里「インターネット的」読む。筒井康隆の想像力と糸井重里の予見力に感心。共通点は整理整頓力だと思う。けれどもその仕方は全く異なる。筒井康隆は形が違うピースを組み合わせて黄金比になる形を作っている。糸井重里は正三角形のピースを組み合わせてそれぞれ違う形を作っている。そんな感じが私にはした。
最近私はとても断片的だ。まとまりが無い。私はこまめに軌道修正しなければならない質だ。銀河系のように中心軸に沿って全てが機能的かつ美的に回ることが理想であるが、現在の私はほど遠い。思考力や体力や集中力も粘り強さがない。色々立て直す必要がある。
などと考えながらぼけっとしていたら、眼前に珍客が。ファミレスのガラス越しにグレーと白の身体を持つ、美しい薄いブルーの眼をした子猫が。私を暫く見つめて、闇夜に消えた。
こういう風な存在感を与える動物とか植物とか人間に、私はとても憧れる。余韻の美しさ。一瞬でも数時間いた様な。こちらの方も、ほど遠い。
せめてガラスのコップの潔さくらいは、今世で身につけたいものである。
昨日から知人のカフェの助っ人に。1ヶ月くらいすることになりそうだ。私はこういうのによくお声がかかる。どうやら毎日大したことをしていないことがバレているようである。
まあ制作もひと段落したし、ネットがうまく繋がらないため仕事も進まないので今月いっぱいは暇になりそうだったし、普段自宅で篭って1人で仕事をし、お互いの機嫌が合えば猫らをこねくり回す日々であったので、たまにはこうしてシャバに出て人と関わるのもよいと思ったのだった。
しかしこうして働きに出ることが約2年ぶりであったため、緊張とプレッシャーのせいか、遅刻してしまい全く役に立たずに終わるという悪夢でうなされ、2日間朝6時前に目が覚めてしまった。ヘタれ具合が甚だしい。
そんな折、スピカの朝の行動がより奇妙なことに。前は微睡む私の頬に肛門を押しつけるという迷惑極まりない行動をしていたのだけれども、最近は早朝に高らかに、にょおおおんと鳴き回り、目覚めた私の眼前にどっしと両脚をふんばり、力強く肛門を見せつけるのである。何やら強固な意思が伺える。猫にとって尻を嗅ぐことは情報収集に他ならない。だとしたら、「オレのことを知ってくれ‼︎」ということか。早朝に。
とりあえず今は物理的にも心情的にもゆとりがあるので、明日からは目覚めて肛門があったら、嗅いでみようと思っている。毎朝嫌な気分だったのだけれども、何事も捉え方次第である。いまいち私に全開でないスピカとの関係性も、嗅いでやることによって何か変化があるやもしれぬ。はたまた私の野生的超感覚が開いたりするかもしれない。何はともあれ試して損はない。いや、無いことはないか。
イギリスがEUから脱退という歴史的規模の衝撃ニュース。世界の方向性が現実的に変わり始めたような気がした。
展示のため昨日まで大阪に。2日間在廊していたのだけれども、殆どずっと誰かの悩みを聞いていた。テーマの共通点は不安と自信だった。まあ、内向的な悩みとは全てそこに繋がるものかもしれない。私も鬱々としていた時期があったため、気持ちはよくわかる。結果的に私が学んだのは、焦りは禁物ということだけであった。
西新井のTSUTAYAで漫画をレンタル。店員さんが100%仕事を間違えていた。値段を間違え、説明を間違え、割引を間違えた。一番わからなかったのが、1本無料チケットで旧作DVDを借りようとしたら、「こちら準作も借りれますが、旧作でよろしいですか?」と言われたので、貧乏性の私は準作に変えることをその店員さんに告げて、準作DVDを手にして同じ店員さんに受付した。
ところが、「こちら旧作のみが対象ですね」と当然のような顔で言うのである。私は一瞬は?となり、「いや、さっきあなたが準作でもいいって言ったんですよ」と言うと、やはり涼しい顔で「はい、でも旧作のみですね」と言うではないか。結局旧作DVDを借りたのだけれども、とても疲れた。何故彼はこの仕事をしているのだろうかと考えながらレモンのような月が照らす帰路に着く。