基本的に制作。打ち合わせ以外、外出することもほとんどない。
先週猛烈に体調を壊した。気絶しかけた。最近心身共に大幅に不安定である。
今日気付いたのだけれども、私は「恥ずかしい」という感情が最も苦手だ。一度羞恥心が起こると、なかなか解消されない。ネチネチと後悔が続いてしまう。たまに思い出して自分をビンタしたくなる。しないけれども。若さとは恥ずかしいものであるとは、誰の言葉だったか。もう若くはないのに、恥ずかしい事ばかりだ。
猫の抜け毛がようやく収まってきた。猫らも何とは無しに気持ち好さそうだ。
最近考えていたことがある。人間において、男女は結局のところわかりあえないとはよく聞くことであるし、私はそれは正しいと思うのだけれども、種を超えた場合でも当てはまるのではないかということである。
例えば、私の飼い猫を見てみると、おろち♀は行動の意味や感情などが割とわかる。が、スピカ♂については、殆どわからない。8割意味不明である。身の周りで関わった猫の統計を見てもそうだ。♀猫の方が同調出来ているように感じることが、圧倒的に多い。もちろん人間同様、個体差があるため例外はある。
周りで両方同居したことのある女性に軽くアンケートを取ってみたところ、私の感想だが♂猫に対してはスキンシップをより求め、♀猫に対しては関係の質を求めるような気がする。人間同士と似たようなものだ。男性に聞いたら考えたことがないからわからないけれども、♂猫がよりわからないということはないとのことであった。
このことは興味があるため、引き続きアンケートを取っていこうと思っている。
明日から6月。2016年の後半が始まる。
最近何だかとても色々あって(私自身にではなく、身近に)その中にはみぞおちを抉られるようなことから、腑に落ちるようなことまであって、人生というものの一過性をしみじみ感じた。
数日間、自分の中でこの日記をつける葛藤があり、それはどこまで書くかということが主な理由であった。
確かにこれはプライベートな日記であるし、自分の価値観だとか本音を主観的に正直に出すことがある程度許されるのだとしても、やはり公開している以上そのラインは決めておかねばならない。書こうとしていた内容は、私の中ではそのラインを超えてはいないのだけれども、今私が持つ語力ではそれが危うくなると思い、書くに至らなかった。いつかもっと上手く語れるようになったら、書こうと思う。
今日は中村一義のライブへ。最近あまり外出もしていなかったため、赤坂に来て「ああ、東京だなぁ」などと、不意に思ってしまった。
ライブは立見でかなり近かったため興奮してしまい、下腹とふくらはぎと二の腕が既に筋肉痛のような痛み。自分の運動不足に愕然とした。筋トレをしようと決意。
今夜は火星が最接近するのだとか。
空を見上げたが火星はおろか、月さえ見えない。まあ私が火星が見えないことなど、まるで大したことではないのですぐに諦めて就寝。
今午前ちょうど3時である。
眠れない。
いや、正確に言うと眠っていたのだが蚊の襲撃に合い目が覚めてしまった。
私は眠りが浅い。尚且つ今は制作中で部屋に籠っているため運動不足である。精神的には疲れているのだけれども、身体があまり疲れていないので通常に輪をかけて眠りが浅い。
無理に眠ろうとすると、ろくでもないことをぐるぐる考えてしまいストレスが生まれてしまう。さりとて完全に起きてしまうのも億劫である。ぐるぐるし始めたので嫌だなあと思っていたら、最近日記の間隔がどんどん開いてしまっているという考えが浮かんだので、携帯で日記をつけることに。
と、つけている途中で雄猫スピカが排便。このまま過ごすことは、習慣上出来ない。起きて掃除。もはや完全に起きてしまった。
窓を開けていたのだけれども、入って来た湿り気のあるぬるい夜風に梅雨の気配を感じた。月は見えない。そういえば、満月後もまるで満月かのような輝きの月が続いていたな。我が家の猫らも野良猫らも、ずっとざわついている。何かが猛烈に変化しているような。
夏の思考は粘着性を帯びるが、うまくまとまらない。まさにそういう雰囲気になって来たので、日記を終える。
というところで、雨が降り始めた。やはり梅雨は近い。
5月9日に着いたその足でBraunsweigへ。25歳の時以来。当時の小学校の先生や親しくしていた人らと再会。
30年ぶりに通っていたwaldorf schuleへ行った後、知人監督がBraunsweig在住のドキュメンタリー日本人監督を紹介してくれたので、会いに行く。アートと映画についての話。
ドイツでとても自然に日本人でいる様に見えた。何処に居ても、変わらなさそうな。実際どうであるかということよりも、そういう風に感じさせる人は好ましい。
20年間何となく釣針の様に引っかかっている未来的なビジョンがあり、それは私にとっては理想的なビジョンではなかったので真面目に向き合うつもりはなかったのだけれども、それでも何故かその引っかかった釣針を自分で取る気にはなれず、そのままにしていた。最近その釣針を刺激されることが多く、その監督男性と話した中でも刺激されることがあって、ああ、また来たな。と思いながら話していた。
ぶらぶらカーという予約制ヒッチハイクのようなものを教えてもらったので、ドイツ人男性の車でベルリンへ。グリーンエネルギー関係の仕事をしているとのことで、福島や原子力や風力発電の話。日本人の問題意識のことを聞かれる。無知が露呈。恥ずかしい。
深夜にベルリン着。やはりドイツは外国という気がしない。私の中に既に在る。部分的なことは見つけやすい。
今日の夜ドイツに発つため、早朝起きて準備や掃除。植物が枯れませんように。アリよ去れ。
猫を友人宅に預けに行くので、ギリギリまで警戒されぬようにキャリーを昨日から出しておいた。外出の準備を始めた途端に猫らは散り散りに逃走。猫は察知能力が高い。が、雄猫スピカはいつも同じところに逃げるため、簡単に捕まる。つまり学習能力は低い。よって能力は相殺された。
無事友人宅に猫を預け、ドイツ行きについてカードをひいてもらう。小さなことが大きなことに繋がるかも。種蒔きのつもりでとのこと。昨日ひいた神託カードと、全く同じ内容。さいですか、心します。と友人に謝辞を言って後にする。
そのまま荷物を持ってテアトル新宿へ岩井俊二のリップヴァンヴィンクルの花嫁。透明感と映像の美しさは相変わらず。黒木華にはいまいち私はのりきれなかったが、まあ岩井俊二の映画にそういうおそらく同性ならではの、ある部分においての不協和音はつきものなので、別段違和感は無い。母親が裸になるシーンと、coccoが私、壊れてしまう。の一連の台詞が良かった。
羽田空港の展望デッキへ。とてもムーディー。強風。抱き合うカップル多し。震えながら牛乳寒天食べる。何故こんなに意地になってまでそこで食べているのか途中よくわからなくなったのだけれども、何となく終いまでそこで食べる。
さあ、第二の故郷ドイツへ。
ここ数日体調が良くない。それによってやる気も出ない。何もせず、何も考えずひたすら猫と寝ていたい。私は元来怠け者であるので、たまにこういう本性が衝動的に出る。
最近私が作る料理が、全く何も美味しくない。好物で至極簡単でいつも作っているミルクゼリーすら美味しくなかった。本日入籍というめでたいカップルにその相応しくない話をする。味覚の方がおかしくなっているのではと。言われてみると、最近美味しく食べた記憶がない。なんでだろう。
3日後からドイツに行くので、色々調べたりメールしたり。縁あるドイツ。いつかドイツで仕事をしたい。
実家から送ってもらったミヒャエル・エンデのモモを20年ぶりくらいに読む。やはりエンデの文章は好きだ。リズミカルで色彩感がある。友人にもらった真っ赤な大粒の苺を食べながら読む。
今日は暑かった。電気ストーブを仕舞って、扇風機を出す。夏が間も無く来る気配。
今年は、どんな夏になるのだろう。
大阪でイベントを終え、久しぶりにのんびりした気持ちで外出。ゆっくりと一人で読書する。
目の前ですぐに結果にはならなかったが、石井ゆかりの星占いを見てタイムリーなことが書いてあったし、尽力はしたので結果については必要以上に気にしないようにする。しかしその他は、考察して改善なり新たな選択なりをしなければならない。毎回何かしらそれはある。
私はよく言葉を間違える。は!と気付いた時にはもう遅い。一度発言した事は取り消せない。その瞬間を固めて封じ込めるだけの力が、言葉にはある。そして一度封じ込められた瞬間は、二度と手にして開けることは出来ない。幾度も反省するのだけれども、なかなかその頻度が減らない。
友人が書いた小説を読了。彼の小説はとても緊張する。毎回心身共に整えてから読みたい小説だ。ひとつ見逃してしまうと、もう間違えるような気持ちがする。気配のような表現の中にこそ、本当のことが在るような。そしてそれは、あるポイントに立たねば決してわからないような。
またしても日記が開いてしまった。
その間に九州で震度7の地震があり、エクアドルでも地震があった。
私自身が東北地震の時ととても似たような状況であった。異なるのは、立場の逆転だ。前回の時は被災者ではなかったけれども、心配される側であった。今回は私が地元を心配する側だった。親族が被災した。1週間経った今も車中泊を続けている。仕事場も家も倒壊したそうだ。まだ地震は続いている。それでもなお、その場から離れられないようである。
自分に出来る事は何か、それを考える時、現在の自分の在り方というものに考えが行き着かざるをえない。自分の価値観や本心や姿勢などが問われる。自分自身によって。私は鈍く想像力がない自分を見た。
東北地震の時は世間に漂う不安の気配に取り込まれ、自分のバイオリズムのようなものの底辺がそれと重なってしまい、知らぬうちに底なし沼にはまり込んだ。泥の中ではどちらが光でどちらが闇なのかもわからない。あの時はそうなるしかなかったのだけれども、引き摺られることに抗って余計に深みに落ち込んでいった。
SNSなどで細かい情報が身近に届いているような気になるが、本当の事は決してわからないと思う。最も重要なことは、繊細で微妙で曖昧だ。そして何か一つでも、少しでも見間違うと、真実は損なわれる気がする。物事の本質は、すぐに認知されないものだと思う。強張った感情や染み付いてしまった感覚というものは、自己処理にとても時間がかかる。声にするにはある程度、精神力と体力が必要なのだ。だから今は、色々なことを見て聴くことだけに集中しようと思う。
こういうとても大きな出来事というのは、実際に自分に影響が有る無いに関わらず、その現実の向き合い方で責任を問われる。私は自分の姿勢を決めなければと思う。
久方ぶりの日記。
日々物事は大なり小なり起こるし、思ったり考えたりすることもそれなりにあるのだけれども、何とは無しに日記に書く気になれなかった。
私自身は冴えない感じなのであるが、状況としては悪くない。いやむしろよい。私を取り囲む有象無象のものらが上手く回してくれているかのような風である。
最近私の考察と実感によるひとつの結論。「全て思った通りに成る」。字面だけで見ると大成功者のような台詞であるが、「願った通り」ではなく「思った通り」というのがミソである。つまり願ったことがあったとしても、それを打ち消すイメージの方が強ければ、それが現象化する。それくらい心の在り方というものは重要で、コントロールすることは難しいのだということをつくづく実感した。
話は変わり、3月下旬から飼い猫おろちとスピカの息子猫トラが2週間ほど滞在している。置き去りにされた怒りも3日ほどで恋しさに変わり甘えてくる。
同時に猫らの交流が増えて不思議なことに、それぞれの鳴き方が変わってきた。年長猫であるおろちの鳴き方を新入りトラが真似し、身体が一回り大きいトラの鳴き方をスピカが真似している。方言を取り入れるような意味合いか。力関係はおろち、トラ、スピカの順位で決定されたようである。以来漂う緊張感が無くなり、互いに干渉しなくなった。
猫社会では干渉しないことが基本的マナーである。だから猫と仲良くなりたい場合、猫好きを全力でアピールして「きゃー!猫ちゃんだ!かわいー!」などと言って近寄ることは猫からするとキモイ、うざい、下品と嫌われてしまう。人間でも初対面でそんな対応だったら不気味なことこの上ない。よく猫は冷たいなどと言う人がいるが、これは猫に無礼者!と怒られている場合が殆どではないかと思われる。
夢見心地で浮ついた気分が漂う花見の盛りも過ぎようとしている。桜も花見もとても好きなのだけれども、この時期は落ち着かない。外界に気が取られるので集中力が無い。
周りは生活を大きく変えていく人が多い。変化の時期かもしれない。私自身も変化を切実に思っている。ブレイクスルーのような。
早朝から打ち合わせ。今は創造的なことが全く出来ないという共感。ここ1週間何もしていない。一昨日はYouTubeで嵐のバラエティなどを14時間見続けていた。面白くないのに目が離せなかった。異常だ。重要な回路がぶち切れているような。元来とんちんかんではある。しかし、今まではそれなりに秩序があった。今はとてもランダムである。いつ何時どの部分で起こるかわからない。私のそういう状態とは全く異なるが、周りにそういう異常だという人が割といる。何だろう。時季的なものなのか。
浅草の馴染みの温泉に数日前に行き、猫にやられた傷から膿が出て劇的に治癒。やはり温泉はいい。今はほとんど完治した。
私を負傷させた雄猫スピカは毎回、こういう事件後に何故か距離がぐっと近くなる。反省したような雰囲気ではない。つまり感情的流れはない。切れた回路が前よりうまく繋がったような。そう考えていると、ふと今の私はスピカに近いかもしれないと思い着く。だとしたら自然に新しい回路が出来るのを待つしかない。
春が近い。