前回の結末を。
結局雨の中、2階に登ったりこじ開けようとしたり、散々空巣のような真似をしたのだけれども、やはり入ることは出来なかった。そのうちお隣さんが現れて近所の方々が集まって来て、裏の大工さんの家に連れて行ってくださり、強面の無口な腕が良さそうなおじいさんが軽く縁側を雨戸ごと外してくれ、中から鍵を開けてくれた。
そんなに簡単に外され、それはそれで不安になるのだけれども、とりあえず後日お礼に伺うことにし、帰宅し、風呂で温まった後疲れ果ててソファで眠ってしまった。
夜になり猫らを友人宅に迎えに行くことに。手土産にイチゴかメロンを迷って、メロンにする。友人はイチゴが好物であったようだ。
優しい声で帰る旨伝えつつ手を伸ばしたら、雄猫スピカにマジで攻撃され流血。激痛。牙が腕に突き刺さった。見ると穴が開いている。暫く血が止まらず友人が手当してくれる。友人に軍手を借りて、何とか猫らをキャリーの中に。トイレを上面に固定し、電車で帰宅。疲労困憊で就寝。
朝起きたら、一晩経って私を思い出した様子のスピカが以前と同様に甘い鳴き声を出しながら尻を私の頬に押し付けて来る。私は昨夜負傷した傷がズキズキ痛くてあまり眠れなかった。手を動かすとビキビキ痛い。骨まで傷が到達しているような気配。赤く腫れてもいる。明日までこんな風なら病院に行こう。そんなことを考えつつ逆の手でスピカの尻を撫でる。前回は3週間で私を忘れかけ、今回は1カ月強で私をほぼ忘れた。ボーダーラインが1カ月であることが判明したということで、日記を終える。
ようやく東京へ。大分と大阪に二週間ずつ滞在。
大阪人は独特な人が多い。毎日見慣れぬ人を見る。川沿いでハーモニカを吹きつつ瞬きせずに近づいて来るおじいさん。スーツもコートも靴も紫色の何者なのか見当もつかない男性。パワーストーンを10個くらいつけている人、マスクを3重につけている人、蛍光イエローのトレンチコートを着ているおばちゃん、前髪を垂直に立てている人。あんぐり口を開けたまま宙を見ている子供。飼主らが立話する間に交尾するチワワ。
毎日毎日、目が離せない人と出会った。妹によく「見すぎやから」と注意を受ける。しかもニヤついているらしい。そういう皮肉な気持ちは全く無いのだけれども、たまに誤解されるので気をつけなければならない。中学の頃、水泳部の大会の結果が悪く全部員が叱責されている最中、顧問に「笑うな!」とビンタされた事がある。それ以来自覚している。
昨夜大阪からの高速バスの車中で、鍵をトランクに入れたままであることをハ!と思い出す。いつもはタクシーで猫らを連れて帰っていたのだけれども、節約のため電車で連れ帰ることにした。手荷物を減らすためトランクは宅送してもらったのである。それが裏目に出た。不動産屋が開くのは10時過ぎなので浅草観音温泉へ。故障らしくぬるい。出たら大雨である。散々である。自分の間抜けな所為なのであるが。
まだ時間があるため浅草のfebruary cafeへ。久しぶりだが、やはりペリカンのトーストは美味い。とりあえず考えても仕方がないのでこの時間を楽しむことに。
と日記をつけていたところで不動産屋と連絡が取れた。なんと合鍵は無いとのことである。壊すしかないらしい。タクシー代を節約どころか、大出費である。それは避けたい。エアコンの設置のため2階の窓の鍵はかかっていない。足場があったかわからないが、何とか入ってみるか。そうしてみるしかない。次号へ続く。怪我の日記でないように祈りつつ。
展示のため大阪に滞在中。
こちらでもお客さんと気持ちのよいコミュニケーションが出来ている感触。嬉しい。
梅田で交差点に車が突っ込む事故。そこに居てもおかしくない状況であった。冷や汗。人生何が生死を分けるかわかない。けれども予測不可能なのでやはり運命というものはあるのかもしれない。違和感や気の向きなど、機微を軽んじないようにしたい。
妹宅の猫2匹と毎日遊んでいる。私の存在価値を多少認めてくれた様で、向けられる眼差しが好意的になってきた。逆に言えば、遊ばないと全く期待外れのような顔をする。愛撫しても「いやいや、求めているのはそれじゃありませんから」といった風である。猫欲求不満は中途半端に緩和された。
明日は名古屋。気温が急に上がった所為か、偏頭痛が酷い。温泉に入りたい。サウナでもいい。最近食べ過ぎている所為かもしれない。節制しよう。と決意した直後、今夜は私が好きなラーメン屋に妹夫妻が連れて行ってくれることになっているのを思い出す。
節制は明日からだなとすぐに翻る程度の決意であることに挫折感を味わいつつも、ラーメンが楽しみである。
頭がラーメン一色になってしまったため、日記を終える。
実家から大阪へ。新幹線の中で食べなさい!と、食べたらボリボリ音が鳴りまくるであろうおかきと、お湯がなければ飲めるわけのないドリップコーヒーを一袋、母から託される。
展示後の色々な雑務と明日から始まる大阪での展示準備とこの際だからと友人たちに会いまくり、かつ実家の網戸替え等があり、ほとんどゆっくり出来ない帰省であった。ほぼ毎日温泉に入ったのがとても効いた。
昨夜の夢。私の運転で両親と3人で車に乗り、急坂をぐんぐん登る。もう坂を越えたと思っても、次から次へと坂は現れて、かつどんどん勾配が大きくなっていく。もう限界だと思ったところで、前の車が滑り堕ちて来て、私たちの車も滑り堕ちる寸前で目が覚めた。
最近こういう感じの夢をよく見る。だいたい私が運転している。風景や背景は至って明るく平和な雰囲気で、死に対する恐怖のような感じは全く無い。何故かとても冷静沈着で見える景色は美しい。そして必ず直前で目が覚める。
猫らと離れて3週間になる。友人宅で恐ろしく人懐こい猫などと接したため、猫禁断症状は緩和された。大阪の妹宅にも猫が2匹いる。うち1匹は私の猫らの子である。4匹生まれた中でこの猫だけが長毛。最初は何だか品ある洋猫だね〜であったのだけれども、今は長毛が伸び放題で毛繕いもしない為イエティのような風貌に成り果てた。猫には見えぬが、一応猫である。猫禁断症状はより緩和されそうだ。
そろそろ大阪に着くので、日記を終える。
久しぶりの日記。展示終了。すごく人と話した展示だった。作品も多く売れた。ありがたい。
繊細に人と接すると、その人の状態がとても感じられる。コミュニケーションはエネルギーの交換だ。話した後の自分の状態で、相手からどういう気が入って来たかわかる。私が相手に流れ入れたのがよい気であるように。
疲れが取れぬまま、大分県立美術館へ。内容よりも作品の額装の仕方や保護方法などに目が行く。材質や接着方法など。最近そういうことを試行錯誤しているためだろう。
日記をつけるべく近況を纏めようとしていても気怠く茫洋とするため、短かいけれども日記を終わる。
福岡行きの空港で日記をつけている。相変わらず制作のみの一週間であった。
31日に友人と久しぶりの外食。友人が出版した冊子本を受け取る。最初に形にする場合は、凝り過ぎたり欲張ることが多いと思うのだけれども、そういうところがまるでなく、書き手と読み手の距離感にとても礼節的趣きがあり、本当に彼女の佇まいそのもののような本であった。
2日。約1カ月間不在のため、猫らを友人宅へ預けに行く。雄猫スピカがキャリーバックの中で粗相。またマーキングが復活していたのである。
最近毎夜我が家の窓際に、横腹にハートマーク斑がある猫が現れる。雄猫スピカは一見無思考無頓着な猫に見えるのだけれども、実はとても男気がある猫である。雌猫おろちのためかは定かでないが、巨大な黒猫や若い鯖トラ猫を激闘で蹴散らし、ようやく安心な日々を過ごしていたスピカであったのだが、ここに来てまた新たな猫が出現。
実はそのハート猫、近所の飼い猫で、引越して来た当初からやたら人懐こく私に擦り寄って来ていた。私もそれに快く応えていた。つまり私の馴染みの猫である。
ところがそのハート猫、我が家に来ると往来で会う時とまるで様子が異なる。屈託なくクニャクニャはにゃはにゃする態度は全く無く、ガラス越しにスピカの真向かいに佇み、挑発的にジッと薄目で見ている。スピカの威嚇にも無反応である。ふん、出られぬくせに。という舐めきった風情である。スピカはそれを察し、さらに激昂する。流石に近所迷惑になってきたので、ハート猫をほら、帰りなさいよ。と追い払った。
その夜から、マーキングが復活したのである。事情を知っているため、無下に叱れない。毛布にやられても、コートの内側にされて着てしまった後に気づいても、無言で処理。
しかし或る日、スピカのお気に入りの居場所であった無印のビーズクッションにマーキングをした。故に彼は好場を無くしてしまった。猫は衛生管理能力が通常高い。
不憫の感など全く起こらなかった。
それ以来もよくハート猫とは出会す。夜の太々しい態度は皆無で、やはり昼間になるとはにゃはにゃ寄って来る。どういうつもりかと人なら思うであろうが、相手は猫である。然して猫とは理屈というものなど持ち合わせておらない。全て己の都合のみで生きている。これまた私は無言でハート猫の腹をさすった。
食事もあまりしていないのに、体重が少し増加。イカン!と思い筋トレをしたのだけれども、翌日筋肉痛で辛かったため2日坊主に。カードの引き落とし額にビビり、落ち着きを取り戻そうと猫の腹に顔を埋める。
そういう下らない出来事を反芻している間に飛行機が福岡に着いたので日記を終える。
制作のみの日々。一度の食事と珈琲とレーズンチョコ。たまに朝コップ一杯のスープ。就寝前に長風呂。合間に猫。それだけの生活。
今日、完全に集中力が切れた。夕方まで珈琲しか飲んでなかったため、エネルギー不足かと思いご飯を食べたが集中力戻らず。こういう時は変に続けると迷宮入りするので諦めて近所にナイトショーを観に行く。
トム・ハンクスのブリッジ・オブ・スパイ。観客数人。友人に強烈に勧められたので観たのだけれども、とても面白かった。
自分の選択や信念に、自分の全てを賭ける事が出来る人はいるだろうが、他人の運命や物事の結果まで賭けられる人は、そういないと思う。全く躊躇せずにそれを当然のように行動する弁護士トム・ハンクス。不屈の男、トム・ハンクス。
他をも賭ける事が出来る信念を持つ人が、大きなことをするのかもしれない。
興奮しながら自転車を漕いだので暑くなり、アイスを買って食べる。私はこういうので簡単に上がる。すぐに影響を受ける。バカかもしれない。明日は不屈の精神で制作しようと決意して就寝。
※灯油は中身だけの販売で、灯油缶がないと売ってくれず、その灯油缶が何処にも売ってない為使用を断念。
毎日制作のみの生活。
昨日はkuuさんの茜染めへ。色々染める。しばらく誰とも会ってなかったので、ベラベラ喋る。こういう時はとにかく喋りたい様で、余分なことまで話しがちである。制作期間中は聞かれたら何でも喋ってしまいかねない。独り身はこういう時に困る。猫らはスキンシップ相手にはなるが、話し相手にはならない。
制作について。前回よりピンチの状況であるのだがメンタルの調子がよい。前回はキューッと点に向かう感じであったが、今回はポワンと放射している感じ。globeは2日が限界であった。坂本美雨や安藤裕子のカバーに変える。
近くのスーパーでゴミ袋を購入。ゴミ袋を透明のビニールに入れて、さらに手提げビニール袋に入れたおばちゃん。訳がわからない。
最近財布の中がピンチになり仕方なく、貯めていた500円玉と100円玉貯金瓶を開ける。(過去の日記でもこの貯金瓶は出てきたが、それは小瓶のことであり、私はまずこの小瓶に貯めてそれが一杯になったら貯金大瓶に移すという自由積み立て式貯金システムを使っている。なので大瓶を開けるとは、積み立て預金を解約するようなものである)無造作に貯めていたが、予想以上に貯まっていた。いくらあるかはっきりしないのもいい。使いやすいし、貯めやすい。これからも続けよう。
我が家は古い木造一軒家であるため、室内が外気温と同じである。エアコンは頭痛が起こるのでつけない。私は常時カイロを貼りまくっている。効能が切れたカイロは逆に冷たくなるという発見。
見兼ねた友人が先月アラジンストーブを貸してくれたのだけれども、近くにガソリンスタンドが無く灯油を買いに行くのが面倒でそのままになっていたが、なんと茜染めの帰りに最寄りのスーパーから2軒隣りの一見何屋か不明な「エネルギー」とだけ書いてある店のガラスに、灯油990円という貼り紙が!灯台下暗しとはこのことである。丁度今日明日は大寒波が来るという予報。猫らに快適な温かい生活を宣言し、100円玉を10枚瓶から出して大吉を引いたような気分で買いに行く。休みであった。
今日は満月。空の財布を満月に向けて振ると金運アップという説。どちらにせよ空に近いのだし夜になったらベランダで振ろう。必要以上に。
朝起きたら雪景色。やっと冬という感じ。寒いのでぼうっと出来ず、コーヒーを淹れて湯たんぽの湯を新たにして、早速制作に入る。
Apple musicでglobeを聴きながら制作。好きな音楽だとそちらに気を取られるし、全く頭に入らない音楽だと制作に疲れる。無意識に口ずさめて、どの曲もあまり違いも思い入れもないのが制作時には向いている。順調に制作は進んだ。
夕方休憩時、iPhoneでニュース見る。スマップの解散危機らしい。普段全く興味無いのに、行方が気になる。
映画「海街」が12冠受賞というニュース。私は11月ドイツに行った際、飛行機内でこれを観た。漫画が素晴らしいので全く期待はしていなかったのだけれども、やはりがっかりであった。
重要な箇所ほど残念だった。姉妹の出会い時に、すずが真夏の蝉のけたたましい鳴き声すら聞こえないくらい泣き叫ぶところから、あ四姉妹の物語は始まる。あの出来事は必須なのだ。映画ではしおらしく泣く場面になっていた。
私が漫画で最も好きな場面。一枚の桜の花びらが真っ黒いすずの髪の毛にふんわり白く引っ掛かるカットがあるのだけれども、それも夏の光景での爽やかな1シーンとなっていた。あれは風太の視線を通したから、あんなにも美しく印象的な場面なのだ。
何より映画には日常感が無かった。避暑地とか別荘地に短期間滞在しているような。同じく機内でミニオンズを観たが、これはとても面白かった。
雪は夕方には殆ど溶けていた。猫らは電気カーペットをつけた部屋から出て来ない。
今は夜中。雪が溶けて滴る音と、遠くで飛行機が飛んでいる音だけ。いつもに増して静かな夜。
目の前でおろちが膨れて喉を鳴らしている。
村上隆の五百羅漢見に行く。日本で最も世界で活躍する美術家は見ておくか、くらいであった。
圧倒された。作品の良し悪しや好き嫌いというようなことは全く問題ではなく、彼の徹底した姿勢がそこにはあった。素っ裸で真剣を手に真向かいで、「で、あんたは?」と問われる感じである。ここまでされたら無視出来ない。五百羅漢というモチーフ自体が、とてもあざとい。日本人は軽んじれないし、海外にはウケる。震災後というサブテーマを引っさげて、よくもこんなことをやれるもんだと呆れそうになるけれども、お金にならなきゃ意味が無いということを大前提としているのは最初からであるし、呆れる人などはなはから相手にしていない。今まで相手にしていなかった日本にも、震災をきっかけに目を向けて来た。キャラクター化することで、日本人にとって嫌味に写りやすい村上隆自身のイメージチェンジを何喰わぬ顔で仕掛けて来た。あざとすぎる。
村上隆の作品を批判するのは簡単だけれども、彼の姿勢や在り方を批判出来る人はそういまい。あのベクトルの強さは半端な人が批判出来るようなものではないし、ベクトルの向きなど美術の場合大した問題ではないと私は思う。村上隆が今何を考えていて、何をしようとしているのか、少しわかったような気がした。
その後フランク・ゲーリー建築展へ。これまた圧倒された。彼の粘り強さに。最初作った模型から完成まで、何十回も試作している。当然のように思われるだろうが、これは実物の模型を見なければその粘りはわからない。作りたいものは「人間的な建築」だそうだ。こちらも明解。
久しぶりに展示を見てかなり精神力を使ったため、へろへろで帰宅。
私は影響を受けやすい。複雑化して解釈する癖がある割には、影響は簡単に受ける。他人の生き方に感動している場合ではないと、威丈高にテレビを片付けることに。しかしいざ片付け始めると、あ、明日は毎週楽しみにしているオトナの!と、おそ松さんが‥‥そういう娯楽を排除するという禁欲的なことが果たしてよいのか‥‥などと、この後に及んでウジウジ考え始め、決意を固めるためにカードに頼るという、意思の弱さを露呈する結論に。2回ひいて、同じカードが出て片付けろと出たので、迷いは吹っ切れて片付ける。他人が見聞きしたら、さぞ馬鹿馬鹿しい光景であろう。
テレビ無き空間は、猫らがすぐに陣取った。うむ。以前より美的だなと納得。
疲労困憊なので長湯してすぐ就寝。
下弦の月がきれい。